2015年4月29日水曜日

お母さんは僕のことをわかっていない!

「お母さんは僕のことをわかっていない!!」

この言葉が子どもから出たら、子どもを成長させる良いチャンスです。

お母さんは「そう。わかっていないんだ!」
と伝えてあげて下さい。

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中学生のA君は、学校に行けない状態が半年ほど続いています。母親は何とか学校に行ってもらおうとA君に話しかけます。

子)皆に全くついていけない状態で登校することは、あまりにも辛いんだ。これから先のことは考える余裕がないんだ。そういう自分の苦しさを理解してもらいたい。

親)その気持ちはわかるよ。でも、出来ることだけでいいから参加してごらん!

子)それを言われるということは、さっき僕が言ったことをわかってもらえてないことになる。

その言葉を聞いて、母親は息子に無理強いは出来ないと考え、それ以上A君に何も言えませんでした。

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親は、子どもをわかってあげようとします。
親は子どもに愛情を注ぎ、子どものことすべてを理解します。それはとても大切なことです。特に子どもが幼い頃は、親の愛情が不可欠で、豊かな心を持った子どもに育っていきます。親は子どもの一番の共感者・味方でなければなりません。

しかし、思春期以降に同じことをやってはいけません。
子どもは親の保護を抜け出し、まわりが理解してくれないソトの世界に自立してゆきます。
しかし、そう一筋縄ではいきません。スッと自らどんどん自立していく子もいれば、なかなか自立できない子もいます。ソトの世界は不安です。ウチの世界に留まりたいと思ったりします。

お母さん、僕のことを100%わかってください。

そういう言い方はしないでしょうが、心の中はそういう気持ちです。

思春期以降、親は子どものことを100%わかろうとしてはいけません。(まあ、そんなことできませんけど)。でも、中には一生懸命100%わかろうと努力している親もいます。それをしてはいけません。
親が子どもをわからない部分をだんだんと増やしていってあげて下さい。
9割しかわからないよ。8割しかわからないよ。7割しかわからないよ。
そうすれば、子どもは親がわからない部分を、自分の力でなんとかしなければなりません。それが自立です。
1割自立して、2割自立して、3割自立して、、、
親が徐々に手を放してゆけば、子どもは自分自身の手を使えるようになります。

しかし、実際にはA君のようなケースが多く見られます。
子どもが「お母さん、ちゃんと僕のことをわかって」と求めると、親は子どもに負けてしまいます。

なぜ負けてしまうのでしょう?
いくつかの要因があります。

親の愛情が大きすぎる場合。
特に「守る愛」が強すぎて、「放す愛」が少ない場合です。親は全力を注いで子どもを守ろうとします。だから子どもの言葉を裏切ることができません。

親の心配が強すぎる場合。
この子は失敗するのでは、ダメになってしまうのでは、、、という不安が先行してしまうと、子どもに「ノー」と言えません。親の不安が子どもにも乗り移り、子ども自身も前に進むことができなくなってしまいます。

専門家も親の不安に加担しています。

「子どもを共感して受け入れましょう」という神話
人は他者から全面的に受け入れられ、承認を受けて、自信を得ることができます。それは心理学の基本なので、カウンセラーはこのことを強調します。もちろん子どもをしっかり理解することは大切なのですが、子どもを押し出す勇気も必要です。

病気や障害という診断
つまり普通の人に比べて弱さを持っているという前提を作ってしまいます。そうすれば、無理したら潰れるから、あまり無理しないようにと、結果的に「守る愛」を親に伝えることになってしまいます。

たとえ、どんな病気や障害を抱えていても、人は弱さと強さの両面を持っています。
強さしか持っていない人はいない、ということは理解しやすいのですが、
弱さしか持っていない人はいない、ということが自分の子どもになると、なかなか理解できません。
子どもの弱い部分はしっかり守ってあげましょう。
子どもの強い部分には、しっかり前に押し出してあげましょう。無理をさせてあげましょう。

親は、子どもの弱さの背後に隠された、強さの部分をしっかり見出してあげなくてはなりません。

2015年4月28日火曜日

両親ふたりで講座に参加する意味

ご両親がふたりで「ひきこもり脱出講座」に参加した方のご意見です。

二人で参加することで親同士がお互いを知る良い機会となり、感謝しております。ただ、同時に考え方の違いに驚くことも多く、この違いをどのように捉えたらよいか難しいと感じています。

両親の考え方は違って当然です。違って構いません。もし仮に全く同じなら、親はふたりもいらないでしょう。違いは、それをお互いに組み合わせる中で、より良い考えが生まれます。
しかし、お互いの考えが相反して拮抗してしまうと、前に進めなくなってしまいます。そのギャップを埋められないからです。

どうすれば、両親の考え方のギャップを埋め合わせることができるのでしょうか。
そのためにできることは、その違いを耕すことです。当初はABの意見が全く違っているように見えても、よく話し合っているうちに、どこか共通点が見出せたりします。あるいは話し合っているうちに意見が変っていくこともあります。その作業を夫婦間で行ってください。

でも、その作業はなかなか大変で痛みを伴います。夫婦ふたりだけだと、そこまで深めるだけの時間も気力も持てません。
そのような場合、どうぞご両親ふたりで参加してください。ふたりだけだと喧嘩になったり、どうしても遠慮して言いにくいことでも、グループの力を借りれば、両者の意見とも支えられ、安全に夫婦間の相違を耕すことができます。

それがグループの力です。

親自身の壁と向き合う

ひきこもり脱出講座の参加者からのコメントを紹介します。

子どもにきちんと向き合えないのは、(1) 親自身の不安や、(2) 自分の子どもの頃の親との壁と向き合うこと、(3) 夫婦がお互いに遠慮なく向き合うことができていなかったのだとわかりました。しかし、どこからどうやって手を付けていいのか迷います。

壁の比喩(メタファー)で考えてみましょう。

(1) 親が子どもにきちんと向き合えない、、、
つまり親と子どもの間に壁があるのですね。本当は子どもに〇〇と伝えたい、伝えなくてはいけないとはわかっています。でも、うまく伝えられるだろうか、うまく伝わるだろうか、そもそも伝えても大丈夫なのだろうか、伝えたらプラスの結果にはならず、マイナスの結果が引き起こされてしまわないだろうか、、、、これすべてが親自身の不安ですね。

進展のない話がとても大切ですね。その中に同じように壁や不安を持っている自分が見えてきます。先を見通せない時に行動が止まってしまいます。うまくいくかどうか、上手にできるかどうか、という結果に注目していると、とても不安になります。しかし、現状をよく理解するためにはまず自分が何に対して不安を感じているかを第三者に言葉に出して説明したり、文字にして明確にすることが必要だと思いました。そして、不安から抜け出すためには、今なにができるかを考え、いろいろ行動を起こして不安を振り切る勇気と、失敗を受け止める覚悟を持つことだと思いました。

そうです。
ふだん、我々は自分自身の「不安な気持ち」に気づきません。「今、私は不安なんだなぁ!」なんて、普通考えないでしょう。それは、不安の渦中にいるために「灯台下暗し」、自分の気持ちなんか気づきません。でも、グループで自分の気持ちを話すと、上記のようなことが起きます。そうやって、自分自身の不安な気持ちに気づくことができます。気づいてしまえば、もうこっちのものです。

不安を取り去る必要はありません。不安は人が生きていくためにとても大切な気持ちです。たとえば、(そんなことありえませんが)「不安」という感情が欠如してしまった人を想定してみましょう。その人が高速道路で運転したらとても危険です。どこまでスピードを出しても不安を感じないなんて。つまり、我々は危険を察知して避けるために「不安」という気持ちを持っています。人が生きていくうえで大小さまざまの危険に出くわします。それを避けるために不安の感情は重要な役割を果たします。

だから、不安の気持ちを取り去るというわけではありません。自分で自分の不安に気づくと、その不安感をコントロールできるようになります。不安を乗り越えることもできます。子どもが成長するためには、ハードルを飛び越える不安を乗り越えなくてはなりません。不安の気持ちが強すぎるとハードルを飛べなくなってしまいます。不安は多すぎても少なすぎてもいけません。そうやって親の不安をコントロールすれば、子どもにきちんと向き合えるようになります。

(2) 自分の子どもの頃の親との壁
親が子どもにどう接するか。そんなこと、ひとつひとつ意識して考えていません。さまざまな場目に応じて、自然に親として動いているわけですが、実は自分の親が自分にどう接してきたかという記憶が根底にあります。気づいていなくても、自然に自分の親との体験を、自分の子どもに伝えています。
その記憶にシコリ、つまりイヤな記憶や、傷を抱えていると、その反動から子どもに伝えるべきことをうまく伝えられなくなってしまいます。
では、どうしたらよいのか。昔の記憶を消せばよいのでしょうか。いえ、その反対に記憶を呼び起こします。小さな出来事の記憶は自然に消えますが、大きな記憶は消えません。自ら意図的に消したいと思っても、逆に記憶に定着して残ってしまいます。
自分の親との壁の記憶を呼び起こして人に話してみましょう。それは、とても痛いことかもしれません。しかし、肩こりをほぐすように、その痛さを通り越せば、昔の記憶から解放されます。そうすれば、自分の親との記憶に左右されることなく、自由に自分の子どもに向き合うことができるようになります。

(3)夫婦がお互いに遠慮なく向き合えない壁
遠慮なく向き合ったらどうなるでしょう?
相手を傷つけてしまうかもしれない。
相手が怒って、自分が傷ついてしまうかもしれない。
もうこのことに関わってくれなくなるかもしれない。
それを避けるためには、パートナーに遠慮します。遠慮したほうが安全ですから。
そうすると、なぜか子どもにも遠慮してしまいます。遠慮した方が安全ですから。
すると、子どももまわりの世界に対して遠慮してしまいます。遠慮した方が安全ですから。そうやって、ひきこもります。
そのために、遠慮の連鎖を断ち切りましょう。
まず、できることは?
夫婦間の遠慮のパターンを崩して、一歩前に進んでみてはいかがでしょうか。

2015年4月11日土曜日

原因探しから未来志向へ

質問。
私が混乱しているので教えてほしいです。今までひきこもり、発達障害、アスペルガーは親の責任ではないと本に書いてあるが、ひきこもりは親の責任なのですか。
私は人から
「甘やかして育てたからだ」
「がんじがらめに子どもに指示している」
と言われ責められてきました。精神疾患は遺伝があるから親の責任ではないかもしれません。ひきこもりは親の接し方で防げるものなのかわからなくなってきました。

ひきこもりに限らず精神的な問題で生活に支障をきたしている人を理解するためには、なぜそうなっているのか原因を明らかにしなければなりません。
まず、病気や障害があるかないかと考えます。

発達障害、アスペルガー障害、うつ病などの病名を付けるということは、それは背後に病気や障害があって、それは遺伝などの医学・生物学的な原因があるという説明になります。

一方、「ひきこもり」という言葉自体は一つの病気を示す概念ではなく、「家に長期間ひきこもっていますよ」という状態像を示すものであって、その原因が何かということは問うていません。
しかし、それでは困ります。なぜひきこもっているのか理解もできないし、問題解決の対策を立てられません。なんとか原因がわかるように見立てないといけません。そこで、様々な試みを講じます。

専門的な知識がない普通の人は、自分でも納得できる身近な原因を持ってきます。たとえば、一番わかりやすいのが
「甘やかして育てたからだ」
「がんじがらめに子どもに指示している」
など親の責任に仕立てることです。

一方、専門的な知識を持っているお医者さんやカウンセラーは、〇〇病や◇◇障害という概念を当てはめます。しかし、その概念は絶対的なものではありません。
診断名は、専門家が立てたひとつの仮説にしかすぎません。

精神科領域の診断はあくまで仮説であり、診断する医者の主観にしが過ぎません。そこが内科・外科など精神科以外の体の病気の診断と決定的に異なることです。身体医学ではCTなどの画像診断や血液検査など客観的で科学的なデータを証拠として診断を確定しますが、精神医学ではそのような証拠がありません。症状から判断するしかありません。それは、医学モデルを適用するための便宜的な仮説にすぎず、本質は誰にもわかりません。病気であるかないかの線引きはとてもあいまいなのです。

たとえば、専門家が用いる広汎性発達障害の診断基準一部をご紹介しましょう。
  • 目と目で見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど非言語メッセージの著明な障害。
  • 精神年齢に相応した友人関係を作れない。
  • 自分の楽しみ、興味や達成感を他人と分かち合おうとしない。

これらの判定は、判断する人の主観に任されています。検査データはありません。
思春期・青年期の人は、いや大人であっても、友人関係をちゃんと作れているかどうか疑問です。「精神年齢に相応している」かどうかも全くあいまいな基準です。それが正常範囲内か、正常域を超えているか、あるいはどの程度までを精神年齢に相応しているかという判断もその人の経験と主観です。

伝統的なカウンセリング手法である精神分析療法は過去志向でした。今現在起きている心の問題は幼少時の親子関係や昔の否定的な人生体験など過去の出来事が原因と考えます。それを突き止めて、自分自身がそれをしっかり認識することで問題を乗り越えます。

原因探しは意味がないと言われましたが、問題を解決するには原因を突き止め、その原因を取り除くことが問題解決の方法を会社の中でやってきました。

そのとおりなんです。
我々は、「原因を明確にする」という近代社会に生きています。そこでは誰もが共通して理解できる客観性が大切です。企業も、国家も、司法も立法も、すべて原因を突き止めることによって、対策を講じます。
ところが、人の心の中身はその人自身の主観的な世界です。意識・感情といったものを明確に定義したり客観的に記述することはできません。会社組織という客観的世界と、心や家族関係という主観的世界の成り立ちは根本的に異なります。客観的な思考方法に慣れた人は、主観的な感情の世界を扱うことに苦労します。典型的な例が、社会の中で活躍する男性にとって、会社のトラブルはいくらでも解決できるけど、家族のトラブルはまったく理解できずお手上げという場合です。それを乗り越えるには、この二つの世界の成り立ちの違いを「理解」しなければなりません。

精神科の診断は医者によって変わるし、時間の経過とともに十分変わりえます。あまり深刻に受け止めないで下さい。
こんなことを言うと、医者仲間から批判されるでしょう。お医者やカウンセラーの先生自身は深刻に受け止めます。しかし、本人や家族はそれを永久不動の真実としての診断ではなく、もう少し自由に柔軟に受け止めます。つまり、この先生と共に問題を解決していくためには、その診断(=仮説)を有用なんだという具合に受け止めると良いです。

ひきこもりの背後に発達障害などの病気・障害が隠れているか否かということを鵜呑みにせず、し「〇〇病・◇◇障害と診断された」現実を客観的に吟味します。診断名を持つことが、本人やまわりの人たちにどんな功罪を生むのか考えてみましょう。

まずプラス面からです。

何が起きているのか理解できます。
「こういう理由だから、ひきこもっているんだ」と説明する言語が生まれるので、今まで「なぜなんだろう???、、、」とわからなかったことが、「なるほど、そういうことなのね」と腑に落とすことができます。

解決策が生まれます。
〇〇病・◇◇障害とわかれば、それに合った治療法や対策が見つかります。必ずしも治癒、つまり問題がすべて解決しないかもしれません。しかし、本人の特性を見出し、それを踏まえて今後どのようにしたら、本人もまわりの人も楽に生きてゆけるかがわかります。

到達目標を下げることができます。
単なる「怠けやサボり」だったら、怠けずにちゃんと他の人と同じように行動することが求められます。〇〇病・◇◇障害とわかれば、普通の人とは違うのだから、(人間、みな個性があって違うとは思うのですが)本人の特性に合った生き方、ライフスタイルを選択できます。多くの場合、それまで掲げていた目標を下げることができます。

自分の責任から免責されます。
「ひきこもりは親の責任」と言われなくなります。それまで親の接し方に問題があったのではないかという悩みや自責から解放されます。
本人にとっては、「努力が足りない、怠けだ、甘えている」と言われなくなります。
担任の先生にとっても、自分のクラスに落ち着きがなく授業に集中できない子や、学校に来なくなる子が出ると、先生の指導力が足りないからと仲間の先生や保護者から見られがちですが、診断がつけばそれもなくなります。あるいは、家族に問題があるのではと、親に責任を押し付けなくて済みます。
お医者さんにとっても助かります。診断名がつかないと、治療することができません。そもそも、医者は「病気を治療する」ことが仕事ですから、病気でない人に対して仕事をできません。病名がつかなければ、医療保険も使えませんし、薬を処方することもできません。

次にマイナス面です。

ショックを受けます。
病気・障害というレッテルを貼られることは、この子は普通の健康な子どもではないんだという事実を受け入れなくてはなりません。心の病気は治るようになってきましたが、まだまだ「心の病気は治らない」という偏見が社会には根強く残っています。実際、うつ病など長期化することもよくあります。一生、病気・障害と付き合わねばならないんだという諦めと覚悟が必要です。これを「障害受容」と言います。受け入れるまで苦しんだり、なかなか受け入れられない人もいますが、覚悟を決めて受け入れることができれば、その後は楽になります。

「放す愛」から「守る愛」に傾きます。
病気・障害を持っているということは、弱さを抱えていることを意味します。普通の健康な人のように冒険はできません。まわりの人は、その弱さを認め、カバーしてあげなければなりません。そのために、親の愛はどうしても「放す愛」が少なくなり、「守る愛」が中心になります。

子どもが幼いころ、多動、偏食、言葉が遅いという理由で臨床心理士から「自閉的傾向あり」と言われました。でもその後に診てもらった専門のお医者さんからは「異常なし」と言われました。
結局、今となってみれば、子どもは人の気持ちがわかる優しい青年へ成長しました。しかし、幼い時に自閉傾向と言われてから、親の私は不安を抱えてしまいました。「子どもに問題が起きないように、、、」と常に子どもの行動を見張っていたように思います。

子どもの成長を見守る親は、常に不安との闘いです。子供が成長する中で大小さまざまな危機や危険に遭遇します。子どもが危機にさらされるそうになったら親は子どもを守り、子どもがそれを乗り越えられたら親はひと安心します。親は不安と安堵を繰り返しながら子どもを見守ります。不安が多ければ守りの態勢に入り、安心感を得ることができれば子どもの冒険を許し、飛躍するチャンスを与えることができます。

子どもに病気・障害という名前が付けられると、親の不安にも名前が付けられ、親の不安が固定化してしまいます。問題がない時でも次に来る問題に備え、常に警戒態勢を敷いていなければなりません。それは親にとって負担となるばかりでなく、子どもはハードルを乗り越える危険に挑戦できなくなってしまいます。

何ができないのか?
病気や障害が根底にあれば、無理してはいけません

何ができるのか?
成長の階段を登るためには、今まで怖くてできなかったことをひとつずつつぶして、できるように進歩していくプロセスです。そのためには、多少とも無理をしなければなりません。

何が無理で、何が可能なのか。それを慎重に見極めます。

過去志向から未来志向へ。

以上のような診断名がもたらす功罪の効果を踏まえた上で、本人と家族は未来に向き合います。
今後、本人が何をできるか、そのためにまわりの家族は何ができるかということに焦点を当てます。
一番大切なことは、その人に一番合った「治療法」を本人とまわりの人が創造していくことです。
つまり今現在の本人の状態を把握して、何ができて、何ができないのか、そして、家族や学校など周りの人はどのようにして関わったらよいのかということをよく相談してみんなで共有します。

診断名は専門家が持つひとつの仮説に過ぎません。薬を処方したりドクターストップをかけるための根拠に診断名が使われるものではありません。この人はこういう弱さを抱えており、何ができなくて、何ができるのかを見極めるための仮説を立てるために使います。

仮説を持つのは専門家だけではありません。本人や家族も、それぞれ仮説を持っています。なぜ、ひきこもっているのか全く理解できないというご家族が多いのですが、よく話し合ってみると、多分こういうことが関係しているのではないだろうかというおぼろげな仮説を持っている場合が多くみられます。本人、家族、専門家、それぞれが持つ仮説は異なる場合が多いので、それらをよく話し合い、すり合わせて、本人がこれから出来ること・出来ないことを見極めていきます。

親が何をできるのでしょうか?
それを見出すためには、今までどうしてきたか、どのように子どもや家族と関わって来たかということを解明しなくてはなりません。その意味では過去もしっかり見つめます、しかし、それはあくまで解決策を見出すための手段であり、悪者さがしをするものではありません。

十分に振り返って、十分に反省して下さい。反省といっても、しょぼんと気落ちする材料にするのではなく、そこから解決策を見出すための材料にします。
もし今までの関わり方が良くなかったと振り返ることができたら、これからは今までとは違った関わり方をできるはずです。それを具体的に解き明かせば、新しい親の関わり方が見えてきます。

もし、「お母さんが甘やかした」ということでしたら、多分そういう要素もどこかにあったのでしょう。親の育て方・接し方がベストではなかったのでしょう。だからと言って親が悪者にされる必要はありません。

No parent is perfect.(完璧な親なんていません)

親は不適切で良いのです。みんな多かれ少なかれ不適切さを持っています。そのことをまわりから責められる必要はありません。自分で責める必要もありません。

でも、そのことをよく深めます。「お母さんが甘やかしたから、、、」という仮説は誰が持っているのでしょうか?お父さんからそう見えるのでしょうか。お母さん自身がそう思っているのでしょうか。それとも、祖父母や学校の先生などにそう言われているのでしょうか。
なぜそのように見えるのでしょうか。どういうところを指して「甘やかし」と判断しているのでしょうか。そういう場合、どうするべきと考えているのでしょうか。もし今までやりすぎていたのなら、どう手を引くことができるのでしょうか。ということをしっかり話し合って見極めます。そして、どうこれから具体的に何をどう改善できるのかを吟味すれば、今までやってこなかった新しい親の関わりを創る事ができます。

このようにして、これからどう子どもに関わることができるのかという可能性が見えてきます。このことは病気や障害があってもなくても全く同じです。

まとめますと、病気・障害の有無にかかわらず、
  • 本人を十分に理解すること。
  • 本人とまわりの複数の人たちが持つ仮説を相互に分かち合うこと。その中には第三者や専門家も含めます。
  • 親や周りの人が元気を失わず、諦めずに、これからできることを考えます。
  • 今、本人ができること、家族ができることをよく考え、無理のない適切な目標を立てます。


家族は、ただ見ているだけ、本人が自発的に気づくのを待つだけではダメです。
結局、困難を乗り越えて次の階段に進むのは、本人自身の力です。自分の力で困難の壁に立ち向かい乗り越えなければならず、まわりが手を貸すことはできません。


しかし、家族は本人が力を発揮できる環境を積極的に作ります。そのために、家族は知恵を出し合って、よくよく話し合わねばなりません。
諦めてはいけません。