2013年10月29日火曜日

女性の児童虐待

「子どもの虐待」ってドキっとする言葉です。
親は子どもを無条件に愛するものです。決して傷つけることはないという共通認識がって、我々が最も大切にする家族の幸せがなりたっています。虐待とはそれを覆す、あってはならない恐ろしいことです。
虐待は今に始まったことではなく、昔からあります。シンデレラも白雪姫も子どもの虐待を扱ったおとぎ話は洋の東西を問わずたくさんあります。でも、それは継子に対する虐待で、普通の家庭には起こらず、特殊な事情を持った家庭に起きるまれな出来事と思われていました。

でも実際はもっと日常ありふれた出来事なのです。全国の児童相談所で扱う件数は、20年前は年間千件程度でしたが、昨年は6万件を超えています。この20年間に50倍以上に増えています。日本の親たちはこの20年間に急に狂暴になったとも考えにくいことです。実際の虐待件数がどれほど増加したかということはわかりません。むしろ社会が児童虐待という現象に敏感になって、今まで家庭という密室に隠されていた問題が見えるようになってきたと考えるのが妥当でしょう。

社会が虐待に敏感になると、どうして件数が増えるのでしょうか。
たとえば、あなたの近所の家から大人の怒鳴り声に続いてドタンバタンとものすごい物音と子どもの激しい泣き声が聞こえたとしましょう。
虐待がメディアであまり取り上げられず、一般市民が虐待についての知識がない時代には、「ああ、うるさい。近所迷惑だな。ヘンな(つまり理解不能な)家のことだから触らぬ神にたたりなし。がまんしてほっておきましょう。」という具合に振る舞うでしょう。
しかし、児童虐待の知識が人々の間に浸透すると、「あれって虐待だよね。なんとかしなくちゃ子どもがかわいそう。事件になるかもしれない。どこに通報したらいいの?」と思います。その結果がここ20年間の通報件数の急増です。

また、虐待をした人は実の母親が6割を占めます。男性の暴力は激しく、子どもを死亡させたニュースが話題になりますが、実際に実の父親が虐待したケースは約2割で、母親に比べればそれほど多くありません。また継父母による虐待件数は全体の1割にも満たず、大部分は実父母によるものです。

もっとも、実の親ではない継父母の家族の絶対数が少ないのでそう見えるだけで、実父母よりは継父母の方が虐待が起こりやすいということは間違いないようです。ただ、今回は継父母の問題ではなく、実父母、特に母親による虐待について焦点を合わせたいと思います。

(巨人の星)
私は子どもの頃、テレビアニメの「巨人の星」が大好きで欠かさず見ていました。スポーツ根性物語のはしりでとても流行っていました。当時は美談として語られ、私もテレビを見ながら自分も目標を目指して頑張ろうと感動していました。しかし、今から振り返れば父親が自分の果たせなかった巨人軍の夢を子どもに託し、「大リーグ養成ギブス」を無理強いさせた虐待の物語と捉えることもできます。こう考えれば親が子どもを虐待するというのはちょっと社会規範が変化すれば見えてくる、昔からあったありふれた出来事なのです。

このように虐待が身近な出来事だとすると、普通の生活を送っているつもりの我々も見過ごせなくなります。
普通なのに、なぜそんなひどいことが起きるのでしょうか?
なぜ、女性が虐待する頻度が高いのでしょうか?
もしかしたら私のまわりでも、、、と心配になってきます。
もう少し詳しくみてゆきましょう。

(虐待の種類)
虐待の種類は身体的、心理的、性的、遺棄(ネグレクト)の4つあるというのが定番でした。

身体的な虐待は実際に傷や骨折などで、「階段から落ちました」と担ぎ込まれた子どもを医者が診察して、あるいは保育園や学校の先生が傷やあざを発見します。あざや傷という物的証拠があるので4種類の中では比較的見つけやすいタイプです。

遺棄(ネグレクト)とは、食事や衣服、衛生など必要なケアを子どもに与えずほったらかしにする虐待です。これも保育園や学校の先生が着替えず汚れた衣服や、がつがつ給食を食べる姿から見出されます。このふたつはいわば伝統的な虐待であり、比較的まわりの人からも気づかれやすい虐待です。

性的虐待と心理的虐待は外から見えにくいのでまわりから気づかれず、長い間繰り返され、子どもの心に深い傷を与えます。病院の救急外来に来ることはなく、妊娠などの性的被害を除けば身体は大丈夫なのですが長期的に深刻なダメージを与え大人になってからも深刻な影響を与えます。

性的虐待は妊娠まで至らないかぎり、最も発見されにくい虐待です。加害者は絶対だれにも言ってはいけないと口を封じ、本人も「恥ずかしいこと」としてまわりに救いを求めません。あるいは、何が起きているかわからないし、お父さんのやることは気持ち悪くてイヤだけど従わねばならないと罪悪感なしで性行為を受け入れてしまっている場合もあります。性(セクシュアリティ)は人の根幹をなすもっとも尊厳される部分です。思春期以降、性に目覚めてから子供の頃の出来事を振り返り、それが如何に自分の内面を傷つけられたかということをやっと理解できるようになります。大人として愛するパートナーと親密になろうとすると、昔の体験がフラッシュバックして、ようやっと身体と心が深く傷つけられたその暴力の大きさに気づき、深く悩みます。自分の性的なアイデンティティを獲得できません。ちゃんとした女性としての(あるいは男性としての)自信を獲得できなくなります。
日本では性的虐待の件数は他の種類の虐待に比べて少ないのですが、アメリカなどでは件数が多くなっています。もしかしたら、日本でもまだまだ隠されているだけで、本当はもっとたくさんの性的虐待があるのかもしれませんが、まだ、その実態は家族という厚いベールに隠されたままです。

心理的虐待は子どもの心を痛めつける言葉の暴力です。
これも形に残らず物的証拠がないので虐待であることを立証するのが困難です。親は子どもを無傷で育てるわけにはいきません。子どもは傷つきながら成長するので、ある程度は親は子どもを傷つけなければなりません。
「あなたはダメね」
くらいの言葉はどの親でも言います。
心理的虐待とはもっとひどい残酷な言葉です。たとえば、「あなたなんて産みたくなかった」、「あなたはレイプされて産まれた子どもなのよ」、「あなたは祝福されずに産まれてきた子なのよ。だれもあなたの誕生を喜んでいないわ」、「死んでしまえなど」といった具合です。このような言葉を繰り返し長い間投げつければ、子どもの自尊心をつぶしてしまいます。

(マイルドな虐待)
この4種類に加え、私が問題にしたいのは親のマイナスの気持ちを子どもに投げかけてしまう関わり方です。これは正確に言えば虐待ではありません。親も子どもを傷つけるつもりは全くなく、むしろ逆に一生懸命に子どもを育てようとしています。しかし、結果的には虐待と同じダメージを子どもに与えてしまいます。
これは心理的虐待の隠された形と言えます。子どもに言葉で何かを伝えるわけではありません。親の自信のなさ、低い自尊心を普段の関わりの中で伝えてしまいます。
誰にとっても子育てはとても不安に満ちた行為です。うまくいく部分と、うまくいかない部分が半々くらいです。「ちゃんと勉強ついていってる?」、「友だちとうまくやれているの?いじめられていない?」、「先生に叱られていない?」、、、などなど心配しはじめると際限がなくなります。親自身が生き辛さや毎日の生活に不安を感じていると、子どもを見つめる眼差しも不安でいっぱいになります。親の私が頼りなくてまわりとも上手くいかないのだから、私の子どももきっとうまくいかないわ。どうにかしないと手遅れになる、、、という自動思考に走ってしまいます。そうならないために親がどうにかしなければなりません。焦る気持ちからああしなさい、こうしなさい、それをしてはダメ、これしちゃダメ、、、自分ではそういうつもりではなくても結果的に過干渉・過保護になり、親自身の不安感を子どもに植え付けてしまいます。その結果、子どもは安心感と安定感を得ることができず、ふわふわしたまま成長して何となく自信を持てない生きにくい人生を送ることになります。でも、親はそんなことまで気づかず必死に子どもに関わります。子ども側はこのようなマイルドな虐待に気づくのは大人になって、自分の子どもを育てるようになってからです。

(虐待の引き金は何ですか?)
虐待の背景としてよく言われることは、
親側の要因として経済的な困難、身体的・精神的な病気、ひとり親、若年の親など。
子ども側の要因としては未熟児、障害を持っている時など。
と言われています。でも貧しくても、若くても、ひとり親でもしっかり良い子育てをしている親もたくさんいます。では何が違うのでしょうか。
ひと言でいえば、心のコップがいっぱいで、余裕がない時です。
人は誰でも心のコップにストレスや疲れを溜めこんでいます。まったく水がないことはなく、半分程度溜め込んでいるのが普通です。それでもある程度余裕があれば、新しいストレスや疲れを受け取ることができます。しかし、コップの中に水がいっぱい入っていると、それ以上水を入れようとしても溢れてしまって受け取ることができません。

(ふたりの子ども)
子どもは二つの側面を持ちます。
子どもはとても可愛いいものです。子どもがいることが喜びや生き甲斐につながります。
子どもは憎ったらしくイライラしてストレスになります。
この両面を兼ね備えるのが子どもです。

先日、近くの駅で二組の親子連れを見かけました。
ホームには4歳くらいの女の子が大声で泣き叫び、母親に抱っこをせがんでまとわりついていました。母親はちゃんと歩かせようとしているのか取り合わず知らん顔で歩き、子どもは泣きながら必死で追いかけています。まわりの人は大声にびっくりして親子を眺めていました。

もうひとり、3歳くらいの男の子が階段の手すりにつかまって子どもにとってはとても大きな階段を一歩ずつゆっくり登っていいました。お母さんはよいしょと先にベビーカーを運んで上で子どもを見守っています。一生懸命歩いている姿がとても可愛いかったです。

親の気持ちに余裕があると、子どもの憎ったらしい部分をすっと収めて、可愛い部分に向き合うことができます。ホームの女の子は普通だったら親もまわりに迷惑をかけてイライラしそうだけど、親に余裕があれば周りの視線を気にせず、子どもの駄々を暖かく受け入れ、甘えずに自分で歩きましょうとしつけることもできます。
親の気持ちに余裕がないと、いつもイライラしていて、可愛い部分を受け止めることができず、憎ったらしい部分にイライラが高じて、叱ったり怒鳴ったり叩いたりしてしまいます。階段の男の子だって、まわりの通行人の目を気にして、ゆっくりペースを待つことができず「早くしなさい!」とイライラしてしまうでしょう。

(どういう時に余裕がなくなるのか。)
それは貧しさ、ひとり親、病気、10代の妊娠などの難しい事情だけではありません。外から見ればごく普通の家族に見えるけど、その奥に難しい事情を抱えていることもあります。たとえば、本当は子どもをあまり望んでいなかった、外面は良いけど家では育児を妻に任せっきりの夫、嫁姑関係など家族の中に解決できない葛藤がある場合、そして普通にはやれているのだけど実は子育てに自信を持てない場合などです。

(虐待恐怖症)
世の中には様々な災いに満ちています。もしかしたら自分にも降りかかるのではと不安と向き合わねばなりません。
たとえばガンが注目されたらいわゆる「癌ノイローゼ」つまり身体に不調があると、もしかしたら自分はガンかもしれない、お医者さんも家族も隠しているに違いないと思い込んでしまいます。エイズ恐怖症というのも、自分はエイズにかかったかもしれないと心配になってしまう状態です。
同様に、もしかしたら私、子どもを虐待しているかもしれない、子どもの人生を台無しにしているかもしれないと心配になる親が増えています。いわば「虐待恐怖症」です。

「ついイライラして気が付いたら子どもに手を上げていました。これは虐待なのでしょうか?私は子どもを虐待しているダメな親なのかもしれない。助けてください。私、このままでは子どもをダメにして私もダメになってしまいます。」
虐待予防のヘルプラインにはこのような相談がよく舞い込んできます。よく話を伺えば、虐待というほどではなくても子育てにすっかり自信をなくしています。
このような相談は女性で、男性からはほとんどありません。

(親子関係の自信のなさ)
なぜ、子育てに自信をなくしてしまうのでしょうか。
自分の親との関係に自信がないと、自分の子どもとの関係にも自信を持てません。
自分と親との関係の中で作られるマイナスのイメージが、自分と子どもとの関係の中で再現されてしまいます。
自分の不安な感情を子どもに投影します。すると親の不安が乗り移ってしまい自信を持てません。
親を見ていると、人間関係の自信を持てません。両親は仲良く折り合うことが出来ずけんかばかりしています。愛し合うはずの夫婦ってこんなものなのと思ってしまいます。
親から受容されなかった、承認されなかった、親に甘えられなかった、親は自分のことを愛してくれなかったという記憶が残ると、いつまでもそれに固執し、親から気持ちを離すことが出来ません。親のことを諦めているつもりでも、実は子どもの頃に得られなかった親からの承認をいつまでも得ようとします。自分がうまくいかないのは親の責任であり、親を憎みます。
親から本来受け取るプラスのメッセージ(愛情、承認)を得ることが出来ず、マイナスのメッセージ(不安、低い自尊心、自信のなさ)を受け取ります。自分は空っぽの人間だ、人とうまく付き合うなんて出来ない人間だ。自分は価値のない人間だと思い込んでしまいます。人との関係がうまくいきません。たとえば夫婦関係に自信がもてません。どの夫婦でも半分はうまくいき、残りの半分はうまくいきません。プラスのイメージがあれば、うまくいく部分に注目して何とかうまく夫婦関係をこなすことができます。逆にマイナスのイメージが先行してしまうと「ああダメだ。最悪!」と思ってしまいます。

(二重の意味で虐待の世代間伝達)
子どもの虐待は世代間で伝達されるとよく言われます。遺伝子が伝わるわけではありません。暴力・遺棄といった親子関係パターンが次の世代に受け継がれていきます。まさにこのようなマイナスのパターン(自尊心の低さ、自信のなさ)も次の世代に伝わってしまいます。

(なぜ女性に多いか)
虐待はなぜ女性に多いのでしょうか? 
まず単純に接する時間が男性より長いという点があります。ストレスのはけ口は身近な人に向きます。子どもと接する時間が長ければ子どもにあたり、その結果が虐待となる可能性も高くなります。

それに加え、男女の指向性の違いも影響します。つまり女性は関係性を指向し、男性は独立性を指向します。
女性は他者との関わりの中で生きています。親のこと、パートナーのこと、友人や職場の人たちのこと、そして自分の子どものことを常に考えています。幸せも不幸も、関係性の中で成立します。それに比べると男性は独立や自立を指向します。人が何と言おうが自分の信念を貫き目的を達成することに喜びを感じます。感性よりも理性を使って考えます。男性にストレスが加わると孤立し、孤独になります。「おたく」は人との親密な関係を拒絶し距離を置いた状態であり、社会との関わりを持たないひきこもりも男性に多いです。ストレスを抱えたまま人に関わると怒りや暴力、セクハラや逸脱性行動などになります。
女性にストレスが加わると、ひとりでは耐えきれず、人を求め、その関係性の中でストレスを処理しようとします。男性のように暴力や性を使うことは少なく、マイナスのオーラを関係性の中に織り込みます。派手に表面には出てこないので一見目立たないのですが、実は水面下でじわじわと陰険に攻め込みます。本人もそんなことをしているつもりはなく、無自覚の中で行われます。職場内でも、家族の中でも起こります。それが子どもに向けられると虐待になります。表だった虐待よりも、マイルドな虐待が多く見られます。

(では、どうしたらいいのですか?)
子育てには余裕が必要です。
そのために社会の手助けが必要です。それは保育園などの支援、経済的な支援、地域の見守り体制などです。またお父さんを職場から返してあげる制度も必要でしょう。

さらに、個別の手助けが必要です。
親自身の人生が光に満ちていたら、子どもにも光を与えることが出来ます。
親自身の人生が影に満ちていたら、子どもに影を与えてしまいます。

子どもに対してどうしよう?
夫に対してどうしよう?
と考えがちですが、結局その答えは、
自分に対してどうしよう?
ということなんです。
自分をとことん見つめてみること。
かなり自己愛的ですが、自分の悲しみや痛みをちゃんと自分で感じるところからスタートするしかないと思います。
それをお手伝いするのがカウンセラーや精神科医です。

2013年10月19日土曜日

親の力を賦活する

ひきこもりの解決に向けて、親ができることはたくさんあります。
家族の力で解決することができます。
しかし、それは決して簡単ではありません。

子どもに言いたい、言わねばならないことは理解しているんです。
でも言えません。

多くの方は「魔法の言葉」を教えてくださいと相談にやってきます。
簡単に解決する方法が見つかるかもしれないと期待します。
「魔法の言葉」はありますよ。
でも、それはソトからやってくるものではありません。処方箋にサラサラと書いてお渡しできるものでもありません。
それは自分自身の中に隠されている「魔法の言葉」を発掘する作業です。とても厄介なこと、骨の折れることです。
カウンセラーは発掘する方法をお教えしますが、掘るのはあなた自身です。とても大変ですよ!!
自分で火の粉をかぶる覚悟をしないといけません。

人を変えることは出来ない。
出来るのは自分自身が変わることだ。

と、よく言われますね。
自分がやらないといけないと覚悟することです。
人をどう動かそうかということではなく、自分がどう動くかということです。
もっと正確に言えば、人を動かすために、自分がどう動くかということなんです。

それは、自分の枠組みを変更することです。
親としての枠組みを変更すること。
人は誰でも「自分のやり方・信念」という枠組みを持っています。
枠組みとは、自分にとって何がOKで、何がNG(イヤ)なのかという境い目のことです。
誰でもイヤなことはしたくありません。
「それで良いよ」というOKの部分で自分の領地を固め、その周りに高い砦を築きます。
砦の外へは行きません。そこは何が起きるかわからない不安と、傷つくかもしれない危険で満ちています。
ふつう、砦のソトには行きません。
でも、今までの自分が変わるために、どうしても領地を広げなくてはならない機会に遭遇します。砦の外に一旦出てみて、NGの部分も自分の領地に含めていかねばなりません。そうすれば新たな自分を獲得できます。
自分から自ら進出できる部分はそれで良いんです。苦労しなくとも自然に自分の領地に含めることが出来ますから。問題は自分がNGと認識した部分です。アタマではそこも領地に取り込んでいかねばならないということは理解できても、自分ひとりの力で危険なソトの部分へ足を踏み入れることは出来ません。

では、どうすればよいのでしょうか?
しっかり信頼できる他者の力が必要です。
その人を信頼できるし、その人は自分を信頼して肯定的に見てくれているなと実感できる人です。
その人に、自分一人では恐くて踏み出せないソトへ連れて行ってもらいます。
「大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」
という強いメッセージが必要です。
だれがそれを言うのでしょう?
信頼して肯定してくれる人って誰でしょう?
一応、カウンセラーはその役を担うプロです。
求めに応じて、対価を頂いて、その役をお引き受けします。
ただし、実際にお目にかかってじっくり話し合うことが出来ればの話です。
ひきこもっているご本人とお会いできれば、カウンセラーはご本人と対峙します。
ご本人と会えず、親が「子どもをどうにかしてください」と相談にやってくれば、カウンセラーは親と対峙します。

ふつう、子どもがイヤがることをしてはいけません。そんなことしたら相手から拒絶されます。
でも、生きていくためにイヤな部分に進出する必要があると判断したら、イヤがっても、イヤな部分に連れて行きます。
「大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」

子どもがカウンセラーを拒絶しているということは、子どもにとってカウンセラーはソトの世界のイヤな部分にいます。
子どもが交流できるのが親だけなら、親がその役目を果たします。
子どもは自分を守る砦を築いています。
ソトに出たくない。
人と関わりたくない。関わったら自分が傷つくから。
とイヤがる子どもをソトに連れ出します。
「大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」

親の私がそんなことを言うのですか?
それはできません。そんなことを親が言ったら、子どもは親を拒絶します。

カウンセラーは、親として作り上げた砦のソトに連れ出します。
いえ、無理強いはしません。そんなことしたら傷つくだけです。
カウンセラーが「とても信頼できるし、自分のことを信頼して肯定的に見てくれているな」と思える人になるまで待ちます。
もしラッキーにも、クライエントにとってカウンセラーが十分に信頼に足りる人になり得たら、無理強いをします。
「傷ついても大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」

そうやって、親自身が砦のソトに一歩踏み出して、今まで出来なかったことが出来るようになったら、親が今まで子どもに伝えられなかったことを、伝えられるようになります。
そうすれば、子どもも今まで出来なかったソトの世界に一歩踏み出し、安全の砦の境界線を広げることができるようになります。

手が込んで面倒なのですが、本人とお会いできない場合には、このようにして親の力を介してひきこもりの解決に向かっていきます。

承認を求めて、、、


あるお父さんの言葉から。

親は息子を受容できなかった。
というより、息子は親から受容されたという感覚を得られなかった。
それが息子の肥大したままのエゴに繋がっている。
親に追いつき追い越そうとして進学校に入ったまでは良かったが、高校ではまわりに自分よりできるやつがたくさんいて挫折した。自己万能感だけが光り、肥大したエゴを取り崩すことができなかった。

そう。息子さんが今、こうなってしまったのは親の責任だと親を責め続け、自分は何も悪くないと主張し、ひきこもってまわりとの交流を遮断することで、自分が傷つくことを極端に回避し、砂上の楼閣のような脆弱なエゴが崩れないように維持しているんですね。

父親も母親も子どもの頃いろいろあって、今までずっと自分の原家族を生きてきました。息子のおかげで、たくさんの心理学の本を読みカウンセリングを受けて、そのことに気づかされました。だから息子に感謝しています。

このお父さんは自分のこと、家族のことをとてもよく分かっています。
子どもの生育過程と、自分自身の成育過程が相似形であることを。

親から受容されなかったのです。
人は、自分が肯定されないと生きてゆくことはできません。
自分は絶対的に肯定されているのだ、自分が生きているのは良いことなんだ、自分は良い部分・悪い部分いろいろあるけど、根本的には生きているに値する良い存在なんだという基本的安定感です。
小さい頃もらいそこねた承認、自分を良いものであるという証明を得るためにとてもとても努力してきました。その結果、立派な鎧を獲得し、社会的に成功しました。
しかし、残念ながら根本の部分はとても脆弱のままです。
傷つけられることに対する耐性がとても低く、自分が崩れ去ることに怯え、ちょっとでも傷つけられると「怒り」という武器で反撃します。
残念ながらそれが一番親しい家族に向けられてきました。

子どもはまだまだ未熟ですから、良い部分もダメな部分もたくさんあります。ダメな部分があっても構わないんだよ、基本的には良い子だから、、、と子どものダメな部分をそのまま受け取ることができません。なにしろ、自分自身が承認された経験が見当たらないので、どうやって受け取ったらよいのかイメージがわきません。
子どものダメな部分をどうにかしないとダメになると危機感を抱きます。
どうにか親の力でカバーしようとやっきになって先回りして手を打とうとするか。
あるいは、逆に子どものダメな部分は親に対する侮辱なんだと受け取り、反撃してしまいます。
結局、子どもは「ダメな部分があっても良いんだよ」という安心感を得ることができません。

基本的安心感を持たない人は、他者を傷つけることができません。ちょっとでも傷つけられたらどれほどショックで立ち直れなくなることをよく知っているからです。しかし、自分を守るためにはどうしても相手を傷つけてしまい、後で後悔します。

夫婦関係も難しいです。
夫婦はお互いがフィットして仲良い時と、お互いがフィットしなくてケンカする時の両方が必ずあります。基本的安心感がしっかり根付いていれば、フィットしない時もなんとか耐えることができます。基本的安心感が足りないと、小さなマイナスのメッセージにも耐えられません。とても傷つき相手から離れるか、相手を攻撃してしまいます。もともとは仲良い関係であっても、negative communicationの悪循環の結果、仲が悪い面が全面に出てきてしまいます。
どんな夫婦でも、良い面と悪い面の両方を持っています。
それでもイイかな、、、と思えば、良い夫婦のストーリーができます。
それではダメだ、、、と思えば、ダメな夫婦のストーリーができます。

多少は傷つけられても大丈夫という芯がしっかり存在していれば、完璧でないといけないという自己万能感を取り崩し、70%くらいの自分でもまあ良いかなと自分自身にOKサインを出すことができます。そうすれば多種の人々と交わり多少自分の思いどおりにいかなくても、いじめっぽいイヤなメッセージを受け取ってもなんとか持ちこたえ、他者と折り合うことができ、だんだんと社会性を獲得していくことができます。矛盾に満ちた社会の中にどうにか自分の立ち位置を見出すことができます。

このお父さんの偉いところは、しっかり自分自身に向き合っているところです。
きっかけは他者(子ども)のことで相談にやってきました。
親として何ができるのかということを相談するために。
親に出来ることはたくさんあります。たくさん見出すことが出来ます。
でも、実際にはそう簡単ではありません。
子どもにうまく関わるためには、自分自身に向き合わねばなりません。
父親として、夫として、息子としての自分に。
他者(子どもとかパートナーとか)に問題があります。どうにかしてください、、、という視点はまだ楽なのです。
自分自身に問題があります。自分を掘り下げないといけません、、、という視点はとても難しいものです。
このお父さんは、しっかりそこをおさえています。