2013年9月27日金曜日

健常者の論理

面接室での会話です。

A)
私の心の中には、いろいろな恐怖があります。
  • 将来への恐怖。このまま収入を得られないと、親がいなくなった後どうするんだろう。今の生活はできなくなる、生活保護を受けることになるんだろうか。精神的に耐えられるとは思えない。野垂れ死ぬしかなくなるのかなあ、、、という不安。
  • 自分の評価への恐怖。まわりの人たちからどう見られているのか、、、という不安。
  • 就職活動の恐怖。履歴書をどう書くのか、面接はどうするか、、、前に失敗したから、また失敗する不安。
こういう恐怖を乗り越えたいんです。。

田村)
A君は自分の現実とちゃんと向き合っているよ。とても偉いと思う。
つまり、こういうことかな。
自尊心(自分のプライド)が傷つくんだよね。
最終的には自分の存在、自分の命にかかわる恐怖かもしれない。
傷つけられると、自分という存在が危うくなる。
自分らしさがなくなる、つまり自分がなくなってしまうという存在消滅の恐怖なのかもしれないね。

母親)
親の私が悪いんです。
私が「こんなことでどうするの?甘えていてはダメ。これからどうするの?」
と言って、Aを追いつめてしまったんです。子どもを傷つけてしまったんです。
だから、その後に反省して子どもに謝ったんです。

田村)
親は傷つけて良いんですよ。
傷つくことで、人は成長します。
だれでも人は潜在的に回復力を持っています。
人は生きているうえで必ず傷つきます。それを何とか乗り越えることで自信を獲得して、ひとまわり大きくなります。それが心の成長なんです。

だから、親がそうやって傷つけたことは良かったんですよ。それでもA君はちゃんと生きているでしょ。親が傷つけたからA君が立ち直れないのではないのですよ。優しく、安全に傷つけることで、立ち直るチャンスをつかめるんです。
だから、親は悪くはない。そのことをしっかり考えてください。
あえて親が悪かったとすれば、傷つけたことを謝ってしまったことかもしれません。
そりゃあ、A君にとって辛かったでしょう。そのことはよく理解してあげてください。
でも、親が傷つけたことを自分が悪かったと否定してはいけません。

A)
先生の言ってることはわかるけど、それは健常者の論理です。
負荷に対する人のレスポンスはみな違うと思います。
負荷がかかり、頑張る人もいるでしょう。
でも、同じ負荷で電車に飛び込んでしまう人もいます。

田村)
そう、その通りですね。A君は鋭いよ。
で、A君自身ははどっちなの?
少なくとも、今までは後者でしたよね。
傷つき、自信をなくして、動けなくなってしまったのだから今、こうなっているんだよね。
でも、今は前者の頑張れる方に変わったんじゃない?
こうやって、カウンセリングもすごく頑張っているじゃない!
自分の恐怖心をこうやって言語化して、それを乗り越えたいと思うなんて、すごいと思うよ。

たしかに、A君のいうとおりこれは健常者の論理なんですよ。
ふたつの考え方があるんですね。
脆弱性モデルとレジリエンス・モデルが。

脆弱性モデルでは、
人は基本的にマトモというか正常のはずだという前提です。(人=健常者という論理ですね)
しかし、実際にはダメになってつぶれちゃう人がいます。
なぜそういう人が現れるのでしょうか?
それは、どこかが脆弱なんだと考えます。
身体が弱いとか、心が弱いとか、〇〇病とか〇〇障害とか、性格が弱いとか、親がダメだとか、学校がダメだとか。
そう考えれば、脆弱な部分を見つけ出し、それに合った対応をします。
治せるなら治すし、治せそうもないなら、正常の人とは区別して、そっと潰れないように無理をしません。
A君の恐怖心がもともとの性格とか〇〇障害とかA君本来が持つ脆弱性から来ていると仮定すれば、もう仕方がない、恐怖を乗り越えるなんてことは考えずに、恐怖を避ける生き方を考えます。

レジリエンス・モデルでは、
人は基本的にマトモでないというか弱いはずだという前提です。(人=弱者という論理ですね)
しかし、実際には頑張って乗り越える人がいます。
なぜそういう人が現れるのでしょうか?
人に助けを求められるとか、支えとなる人がいるとか、自分の限界を知っているとか、全面的に信頼できる超越した存在に守られているとか、コミュニケーション能力を持っているとか、、、何かわからない要因があるはずです。
そう考えれば、乗り越える力(レジリエンス)をどうにか見つけ出し、それをうまく活用します。
そう考えれば、本来弱い人間でもどうにか電車に飛び込まず、それなりに幸せを感じて生きながらえることができます。
人間はもともと弱いですから恐怖心があって当然です。A君が弱いとかおかしいわけではない。人間という存在自体が弱いわけですから。A君の恐怖心を何とか乗り越えて生きながらえるかもしれません。
A君のレジリエンスは見えてきました?
今まで、あまり成功体験が得られていないからはっきりとは見えてないけど、何となくA君の芯の強さを最近感じます。
それは、お母さんがA君を追いつめたことが逆説的に功を奏したのか、
あるいは、私といろいろなことを話せたことも原動力になったかもしれませんね。
他にもあるのかもしれません。

子どもからの視点

確かに今、私は動けなくてよどんでいます。
でも、そのことと親とは直接関係ありません。
母親は自分の育て方が悪かったと思い込んでいるんです。
たしかに小さいころ母は怖かったです。
ちゃんとした子どもに育てようと責任感が強かったのだと思います。
でも、良いんじゃないですか。特に子育てが悪かったとかはないし、別に親を恨んでるとかはありません。今の私の問題は私の責任ですから。

母親は今まで子育てしてきて築いてきた「私たち子どもの母親」というアイデンティティを捨てられないんです。
私はもうそんな歳じゃないのに。
私と母は似ている、、、と、母親は思い込んでいるみたい。
私とあなたは別の人間だから、、、と私は母に言いたい。言ってもわからないだろうけど。
そうやって子どもに依存してくる関係は正直なところ重たいです。
子どものことをほっておいて、自分のことを考えてほしい。
母親には自分の好きなように生きてほしいと思うのですが、今までずっと人のため、家族のために生きて来た人だから、「自分のため」といっても理解できないんじゃないかな。自分のアイデンティティを切り替えることができないのだと思います。

あなたの言うとおり。
とてもよく自分のこと、親のことをとらえられていますね。とても良いと思う。
確かにあなたは問題を抱えているかもしれないけど、それはあなた自身の問題。あなたが自分で解決する責任を持っているし、それを果たすことができると思いますよ。ちゃんとここまでわかっていれば。

でも、お母さんはまだ気づいていないですね。
子どもの問題で相談に来ているけど、本当はお母さん自身の内面の問題であるということに。
ある意味、「子どもの問題」とした方がお母さんにとっても楽なんですよ。
もちろん楽ではない、とても悩んでいらっしゃるけど、それは今までの「子どものための自分」というアイデンティティの枠組みの中での悩みですから今までやってきたことの延長線上にあります。

お母さんにとってもっと辛いのは、それを自分の問題と捉えなおすことなんです。
子どものことでは相談に来るけど、自分のことを相談しますというスタンスはなかなかとれません。
なぜなら、それはお母さんが自分自身に向き合うことであり、今まで築いてきた自分のアイデンティティを確認して、場合によってはそれを変更しなければならないからです。
それはとっても辛いのです。

2013年9月23日月曜日

安全に傷つく体験

  • 先生が講義の中でおっしゃっていた、「安全に傷つける」ということについて、具体例などをお話しください。
多くの方々から「安全に傷つく体験」について質問を受けました。一番重要な点なので、少し丁寧にご説明しましょう。
  • 「試練・傷つきが成長を促す」とありますが、ひきこもりソトの世界がない状態で、誰が試練を与えるのでしょうか?「親の声のかけ方・関わり方」なのですか?
はい。そのとおりです。親です。
他者との交流とのなかで「試練や傷つき」は与えられます。
ウチの世界にひきこもっていると、他者がいません。
他者との交流を避けるためにひきこもっています。
ひきこもっていると「試練・傷つき」の機会が失われます。そのままだとずっと成長できません。
唯一、利用可能な他者は家族です。
家族は、ふつうウチの世界の番人で、子どもが傷つかないよう保護します。
保護する機能(=母性)は大切ですが、それと同時に傷つけ、外に押し出す機能(=父性)が必要です。
子どもはウチの世界で保護する人よってに守られ、100%の自分でいることができます。自分の思い通りになる世界をまわりが作ってくれます。
子どもから思春期に成長し、ソトの世界に進出するには守ってくれていた保護壁から抜け出し、ひとりソロで相手と向き合わねばなりません。
他者というのは基本的に異質ですから自分の思うとおりにはいきません。必ず多かれ少なかれ傷つきます。100%の自分はもはやキープできません。それはよく考えてみればとてもショックなことです。
100%でなければもう自分ではなくなってしまう!
そう考えれば、傷つくような場面は絶対避けます。つまり、100%の自分をキープするか、前面撤退する0%のどちらしかありません。その中間はあり得ないのです。それが自己万能的自我です。

異質な他者を受け入れるには自分が折れなければなりません。10割のはずの自分が7割に目減りしてしまいます。3割ほど自分らしさが減ってしまうけどそれで構わないのです。残り7割でも大丈夫。十分、自分としてやっていける。でも、相手も多少削ってもらい自分を受け入れてもらいます。
1+1=2 にはならず、
0.7+0.7=1.4 にしかなりませんが、そうやって他者と折り合い、自分が居てもOKな「居場所」を確保することができます。自分が存在することで相手が少し影響を受けるわけで迷惑をかけるのですが、自分だって相手のせいで影響を受けているわけで、自分が「それでも良いよ仕方がないよ」と認めれば、相手自分を認めてくれるイメージを描くことができます。
「7割でも構わないよ。それでも自分が失われるわけではなく、十分に自分を維持できるよ!」と誰かに言われ、承認され、それで良いんだと思えれば、安全に傷つくことができます。
  • 家の中にいるだけで全く家族以外の人との関わりがありません。今は正直おだやかな毎日が過ぎている感じです。安心感はあるので、どうやって安全な傷つき方をすればいいですか。まず何をやってみればよいのでしょうか。
それはウチの世界に留まっている安心感です。ホントの安心感ではありません。
できることはたくさんあります。そのひとつとして、外に誘い出してみてください。
怒ったり強制するのではなく、穏やかに、丁寧に、しかし力強く伝えましょう。
「外に出れば傷つくでしょう。でも、大丈夫、傷ついても構わない。傷ついても自分がこわれることはないから試してみてごらん!」
このように「外に出ても、傷ついても良いのだ。おまえは外に出て成長できるから大丈夫だ!」という安心感を与えてください。
  • 息子に外に誘い出そうとするのですが、すべて「ノー」と拒否されるので私はもう声をかける元気もなくなってしまいます。こんな時、どう気分を立て直し、どう対応したらよいでしょうか?
元気がなくなるのは当然だと思います。
元気や勇気は自分ひとりで作り出すものではありません。
人からもらうものです。人との交流から生み出されるものです。
自分の行為や努力に対して、人から「イエス」と肯定され承認をもらうと、ああ自分はこれで良いのだと元気が発生します。
逆に、人から「ノー」と否定されると、元気が失われます。
このようにして、親から子どもに元気を伝えます。
その逆も同様です。親も子どもから元気をもらいます。
親が子どもに働きかけ、「イエス」をもらうと親は元気になります。
その逆に、「ノー」をもらうと親の元気はなくなります。当然ですね。

では、どうしたらよいのでしょうか?
親は誰か他の人から元気をもらってください。
子どもはもうしばらく「ノー」を突きつけるでしょう。子どもから元気をもらうのは無理です。
両親の間で元気を醸成してください。
たとえば、父親が子どもに働きかけ「ノー」を突きつけられたら、妻が夫に対して「イエス」を伝えてください。
「お父さん、今は子どもからノーだけど、そうやって子どもに伝え続けた方が良いよ。『イエス』だよ。お父さん、がんばって!」
というように。
お母さんが関わる場合は、夫から妻に「イエス」のエールを送ります。

要するに、元気のバケツリレーなんです。
子どもが元気を回復するために、親が元気を与えます。
親が元気を回復するために、もうひとりの親(あるいは家族の誰か)が元気を与えます。
家族が元気を回復するために、社会には支援者と呼ばれる人たち(たとえばカウンセラーとか)がいます。私もその一人です。
  • 父親が話しかけようとすると、逃げたり、口をきかなくなるので、何も言いたいことを言えません。
言いたいことはしっかり伝えましょう。
それが親の果たす義務です。
親から子へ、命を繋いでいくわけですから。
  • では、どうやって伝えればいいのですか?
それは、ハウツーではないんですよ。
大切なのは言おうとしている親の元気さです。
親に元気があれば自然に子どもと向き合うことができます。不思議ですが。
元気が足りないと、心配したり、焦ったり、怒ってしまいます。すると、逃げる子どもを捕まえたり、無理に迫ったり、うまく伝えられないどころか修羅場になってしまいます。
  • 両親とも健康で、普通に生活しています。病気もせずに元気ですけど、、、
いやいや、、、
それは身体の元気さです。
私が言っているのは、心の奥底の元気さです。
  • 娘は大変傷つきやすく、テレビやインターネットなどのちょっとした言葉にも自分の考えと異なると深く傷つき、思いつめて死にたくなってしまうのです。
その傷つきの気持ちをよく聴いてあげて下さい。
そして、「そんなことない!」と否定するのではなく、受け止めてあげて下さい。
十分に気持ちを理解してあげれば良いです。娘は自殺するのではないだろうか、、、と心配しなくても大丈夫です。
そして親が言いたいこと、言うべきことをしっかり伝えましょう。
娘さんは、死にたいわけではありません。
死にたくなってしまうほど辛いのです。
「死にたい」というのは「辛い」という気持ちにかかる修飾語です。
その辛さを十分に受け止めれば、大丈夫になります。

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これらのことを親が行うためにとても重要な前提条件があります。
親が心の元気を確保していることです。
それは、心のコップに人の気持ちを受け止めるだけの余裕があることです。
それは、親が希望を持っていることです。
未来のことは、だれも知りません。
希望とは、誰もわからない未来を肯定的に受け止める力のことです。
不安とは、誰もわからない未来を否定的に受け止める心のクセです。

「安全に傷つく」ということなんです。
何でもかんでも、傷つけば成長できるというものではありません。
安全に傷つく」のです。
  • その安全とは何でしょうか?
家族など重要な他者が、自分のことを肯定的に受け止ているのだという安心感です。

講演会の反響

 先日は講演会ありがとうございました。
 先生の軽快な語りと、明確な表現で、本当にあっという間の2時間でした。田村ワールドに引き込まれました。
 「安全な傷つき」「ウチの世界・ソトの世界」「家族の力」「勇気」など、たくさんのキーワードをいただきました。
 ご家族からのいくつかのアンケートには、「勇気を持ちたい」と書かれていました。

どうも、お疲れさまでした。

実は私としては講演の後、ちょっと後味が悪かったんですよ。
少し言い過ぎてしまったかな、ひきこもりの家族の方々にはちょっときつかったかなと反省していました。
でも、「勇気を持ちたい」というみなさんのお言葉に、私もあれで良かったのだろうと自分の話したことを肯定する勇気を持つことができました。
 講演で最後に紹介した「ひきこもり脱出講座」への申し込みが殺到しているんですよ。多くの方々にとってプラスになったのですね。私としても嬉しいです。それで、急きょ次の講座を11月に開始することにしました。

2013年9月16日月曜日

家族臨床-私の見立て (2):関係性モデル

関係性モデル

 このように臨床家として駆け出しのさまよえる時期に私は家族療法と出会った。大学院生であった私は1984年の本学会第一回大会のミニューチンの講演を聞き、家族を理解する枠組みに目から鱗が落ちる思いだった。学会をきっかけとして当時国立精研にいた鈴木浩二先生のもとで半年ほど学んだ後、ロンドンで3年間家族療法を学んだ。これらの臨床体験とトレーニング体験を経て、私の視点は個人中心の医学モデルから関係性モデルにシフトした。

ロンドンのTavistock Clinicでは対象関係論とシステム論を学んだ(文献1)。水と油のような両者の共通点は「関係性」である。乳幼児期の母子関係に限らず、人は一生を通じて安全な関係性の中でエンパワーされ、不安定な関係性の中で生きる力が削がれ病理を生み出す。問題を維持しているのは個人の内部にあるのではなく、個人を成り立たせている文脈にある。臨床も全く同様であり、安全な治療関係の中で人は癒される。

(安全な関係性と不安定な関係性)
安全(secure)な関係性の基盤があると、未知の他者を信頼して肯定的な側面に目を向ける力を得ることができる。お互いに本音を伝え合い、考えの異なる他者を認めつつ相互が適度に自己主張して折り合う。安全な関係性の中で開示された否定的体験を他者が承認し、関係性を築く自信を得る。肯定的な自己をつくり、人生の困難を乗り越える力を得てライフサイクルを前に進めることができる。思春期の子どもは社会性を獲得し、家族から巣立っていく。

不安定(insecure)な関係性の基盤の上では他者を信頼できず、どうしても相手の否定的な側面に目を向けてしまう。自己主張すると相手を傷つけ、自分も傷つくので本音を伝えることも、違いを受け入れることができない。親密な関係性の中に不安を抱えているために、新たな関係性を築こうとしても不安が先行してしまう。親密な他者から十分に支えられず、お互いの不安を投影し合い、不安が家族間で連鎖する。肯定的な自己像を作ることが困難になる。困難や問題に直面しても十分に話し合うことができず、孤立したまま不安に満ちた解決策を繰り返してしまい、よけい不安が増大してしまう。ライフサイクル上の変化や突然の人生の困難さに向き合うことができず、停滞してしまう。思春期に入りソトの世界の新たな関係性に不安を抱き、傷つきから身を守るために外界との関係を絶ちひきこもることもある。

ひきこもりは個人病理でも家族病理でもなく、安全な関係性が確立できない状態と私は考えている。思春期は関係性のスキルを獲得していく時期である。家族や小学校など受動的に関係性が与えられるウチの世界から見知らぬソトの世界に飛び出して、自己に責任を持ち、能動的に他者との関係性を作り始める。人は通常の社会生活を営んでいるかぎり、人々と交流体験を通して関係性を進化させる。巣立つ元の家族関係に焦点を当てなくとも、巣立つ先の関係性で試行錯誤することで成長する可能性がある。しかしひきこもり、他者との関係性が絶たれると成長の機会を失う。それが長期化して、臨床場面にも本人がやってこなければ、唯一のこされた関係性は家族のみである。家族という関係性をいかに有効な資源として活用できるかが最重要のテーマとなる。

家族は問題を抱えると不安定な関係性に傾きやすい。それが長期化すると不安の悪循環に陥り固定化してしまう。このパターンは夫婦不和、実家との葛藤、ひきこもりなど慢性的な問題を抱えた家族によく見られる。臨床家は家族に参入して治療システムを形成し、関係性の安定を図る。そのためには専門家という立場を利用して各メンバーを共感的に理解し信頼関係を樹立する。家族各人の立場をねぎらい、相手から否定されがちな状況を肯定的に意味づけする。たとえば、子育てに関して両親がお互いのやり方を批判しあっているとき、父性・母性という異なるアプローチが子どもには必要であることを説明して両親それぞれの異なる立場を肯定する。家族がお互いに傷つけあうことを恐れ、本音を伝え合えない関係性に臨床家が参入し、双方を肯定しながらコミュニケーションを促がす。このような働きかけをあきらめずに繰り返していく中で家族の関係性が多少とも好転して、各メンバーが潜在的に持っていた解決策を語り始める。そうなれば治療者が直接問題解決に関わらなくても、家族自身の力で自らの危機を乗り越えられるばかりでなく、家族が自信を回復し、レジリエントな家族システムへ進化できる。

このようにして不安定な関係性をより安全な関係性に変化させるのが関係性モデルにおける臨床家の役割である。それを遂行するために最も重要な要件は、治療者・クライエント間の安全な関係性を確保することだ。それを複数の家族メンバーとの間に同時に確保することは、個人セラピーに比べて難易度がかなり高い。治療への動機づけはメンバー間で差がある。動機づけの高い人に比べて、低い人との関係性構築がより難しい。また一方との信頼関係がもう一方との関係性樹立の妨げになることもある。治療者は中立性を保ちつつ各メンバーに深く共感し、焦らず丁寧にジョイニングしていく。

(関係性の中で見立てる)
関係性モデルでは観察者から切り離された客観的な対象としてではなく、関係性という枠組みの中で見立てる。共感的な理解は臨床家自身の感情体験を投影する主観的な体験である。

クライエントが問題をどのように語り、そこにどのような感情を乗せるかは臨床家との関係性に大いに影響される。治療初期の信頼関係が途上の段階ではクライエントも臨床家も納得のいかない中途半端な語りしか得られない。治療を進め信頼関係が深まると問題の背景や解決の可能性について初期の頃とは全く異なる内容が語られるようになる。深化する関係性の中で、見立ては常に変化している。

 臨床家が持つ見立て(診断名というストーリー)はクライエント自身が持つ見立ての上位に位置するものではない。臨床家は理論的枠組みと臨床経験という強みを持ち、クライエントは自分の体験という多くの情報の中からどの部分を切り出すか自由に選択する。いずれにせよ双方が持つ見立ては多くの可能性の中から恣意的に選んだひとつのストーリーにしか過ぎない。たとえば、多くのクライエントはなぜ学校に行かずひきこもっているのか「分かりません」「理解できません」という姿勢で相談にやってくるが、よく話を聞いていると本人も家族も何らかの「見立て」を持っていることに気づく。「うちの子は何かの精神病かもしれない。」、「親には言えない悩みを抱えているから、専門家と話せば良くなるはずだ。」、「親の関わり方が良くなかったから。」、「単に甘えているだけ。母親が甘やかしているから。」といった具合である。これらの見方は臨床家の見立てとは別の次元の主観的な見立てであり、家族内でも父親・母親・本人さらにはきょうだいの間で異なる。まずそれらをよく導き出すことが肝要だ。ひとりのストーリーよりは複数の異なるストーリーがあった方が良い。臨床家とクライエントがそれぞれの見立てを出し合い会話する中で相互に影響を及ぼし合い、語り方が変化していく。それを積み重ね何度もバージョンアップした末に、「なるほどそういうことだったのですね。こうすれば問題が解消されるのですね。」と腑に落ちるストーリー(alternative story)を臨床家とクライエントが持つことができれば、治療という行為は成功とみなされる。

(臨床家自身の関係性に焦点を合わせる)
臨床家は自身の体験を投影することによってクライエントに共感する。クライエントが表出する影の部分(否定的な感情や体験)を否定したり、怒りや不愉快な反応で防衛することなく肯定的に受け止めることでクライエントは安心と臨床家に対する信頼を得る。信頼関係に裏打ちされた自己肯定感が育つと、当初は否認していた光の部分(自己および他者に対する肯定的評価)を表出するようになる。臨床家はそれを自身の光(肯定的な体験)に照らし合わせて共感することによりクライエントと臨床家の間に安全な関係性が育成される。クライエントはその体験を家族関係にも波及させて、より安全な家族関係を築くことができる。

臨床トレーニングの中で自己の体験を外在化できれば、それを臨床現場で自由に利用できる。それは①一個人としての生育歴・家族歴に埋め込まれたライフサイクル上の重要な他者との否定的・肯定的な関係性であり、②臨床現場における関係性に埋め込まれた感情体験である。否定的な体験を語り、未だ言葉にされていなかった体験に言葉を与えていく作業の困難さを体験し、それが他者に受け止められる安全感を体験する。精神分析家のトレーニングにおいて自己の内面を振り返る教育分析が基本となるように、家族療法家にとって自己の体験を振り返るトレーニング self of the therapist training) は基本中の基本である (文献2)。

私も臨床家になってから何度もこのトレーニングを繰り返してきた。20歳代で行った時はまだ自己体験を落ち着いて振り返る余裕はなく、全く腑に落ちなかった。結婚、子育て、パートナーの喪失などの家族体験を重ねていく中で、自己のストーリーは30代、40代、50代と年齢と共に変化していく。臨床家にとってクライエントと協働する臨床体験はパーソナルな自己の生活体験と相似形であり、臨床家が自己を語るトレーニングの場を持つことが、クライエントが自分を語りうる臨床場面を提供することにつながる。

(文献)
1) Byng-Hall, J. (1995) Rewriting Family Scripts: Improvisation and systemic change. New York, Guilford Press.
2) Baldwin, M. ed. (2000) The use of self in therapy. New York, Haworth Press.

家族臨床-私の見立て (1):医学モデル

医学モデル

一言で言えば私の見立て、つまりクライエントを理解するための準拠枠(framework)は医学モデルから出発して関係性モデルに落ち着いた。

不可解で個別バラバラな現象を整理して概念化するためには何らかの理論的枠組みが必要だ。医学モデルは①アセスメント(診断)⇒②介入(治療)という二段論法であり、「診断の正確さ」にこだわる。痛みや体調不良といった主観的な体験は背後に隠されている生理現象という真実を解き明かすための糸口に過ぎない。科学(science)の一分野としての医学は主観的体験を突き抜けた向うにある客観的真実に迫ろうとする。

身体医学には物的証拠があるので分かりやすい。本人の主観的な訴えの詳しい状況(たとえば、ただ「痛い」というだけでなく、どのような時に、どんな状況で、どの部分が、どのように痛むかというように)、診察による客観的な身体所見、それに血圧測定、血液検査・尿検査といったデータを統合して身体のどの部分にどんな出来事が起きているのか探りを入れる。その仮説に特化した検査を行い診断を確定する。たとえば頭痛とめまいがする患者さんを診察して脳の問題にあたりをつけたらCTやMRTを撮ってa)脳内出血かb)くも膜下出血かc)硬膜外出血かを鑑別し、身体の中で本当に起きている真実を見極める。正確な診断さえつけば治療の道筋が自ずから見えてくる。実際には頭痛とめまいを引き起こす病気はたくさんある。頭ではなく心臓や肺や別の部位の問題であったり、膠原病のような全身性疾患かもしれない。限られた情報の迷路を辿るようにして如何に正確な診断に迫るかということに医者は命をかけている。NHKテレビ番組「総合診療医ドクターG」の世界だ。

一方、精神医学には物的証拠がなく、本人の主観的体験しかないので実に分かりにくい。アルコール依存症や脳血管障害による認知症といった身体を基盤とした疾患を除けば、多くの心の問題にはデータ化できる客観的エヴィデンスがない。統合失調症やうつ病などの内因性疾患の場合、寄せ集めた症候をDSMなどの操作的診断基準に照らし合わせて疾患名の仮説を立てるが、それを客観的に証明し、確定診断できない。たとえ世界共通の診断基準を使っても、訴える所見を異常とみなすか否かの判断は主観性の何物でもない。たとえば被害妄想、離人体験、失見当識といった普通の人は体験しない、精神医学の教科書に載っているような症状はまだわかりやすい。しかし、だれもが経験しうる状態を異常所見とみなすかという判断はとても難しい。

たとえば、うつ病の診断基準にある「何もやる気がしない、仕事や家事が手につかない状態(意欲の低下)」は誰でも多かれ少なかれ経験することであり、その経験を全く持たない方が異常だろう。あるいは広汎性発達障害の診断基準には「発達水準に相応した仲間関係を作ることの失敗。楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有することを自発的に求めることの欠如。(対人的相互反応における質的な障害)」というのがある。この基準自体は妥当であっても、それを実際の子どもたちにどう当てはめるかは、判断する人によって全く異なる。まず、「発達水準に相応した仲間関係」をどうとらえるか大きく意見が分かれるだろう。また分かち合えるような他人がいなければ自発的に共有するわけがない。つまり本人自身の問題ばかりでなく、本人を取り巻く関係性が問題になる。

正常・異常の線引きはヤスパースのいう「了解できるか」で判断するしかない。何もやる気がしなくなるような心因(心理的要因)を語ればなるほどと腑に落ちるが、そのような背景となる情報が得られなければ腑に落ちることはない。このように了解可能性とは、どれほど内面を掘り下げて理解するかきわめて主観的な判断のはずなのに、資格を持った専門家の判断が科学的に記載された「真実」として格上げされてしまう。しかし実際の臨床では熟練した臨床家でも診断名はバラバラであり、「正しい診断」に近づくどころか、関わった臨床家の数だけ診断名が拡散してしまう現状を目の当たりにしてきた。

診断基準に当てはまりにくい人をどうにか診断して医学モデルに当てはめるためにはふたつの抜け道がある。ひとつは仮説としてのゴミ箱的診断名である。たとえば、私は学生の頃に微細脳症候群 (Minimum Brain Dysfunction; MBD)という概念を習った。知的な障害がないのに集中困難な子どもには様々な検査では見つからない微細な障害が脳にあるという想定の診断名である。注意欠陥・多動性障害(ADHD)の昔の呼び名であり、今では死語となっている。診断書によく使う「自律神経失調症」もこの部類に入るだろう。

もうひとつは既成の疾病概念を広げて診断しやすくする方法だ。たとえば従来からあったカナー自閉症の概念を広げた「自閉症スペクトラム」や、内因性うつ病(またはメランコリー型うつ病)の概念を広げた非定型うつ病、ディスチミア型うつ病、新型うつ病などの呼び名である。これらは多くの事例から類型化を試みた症候論であるが、その背後の器質的な要因は原因不明のままである。私が臨床に関わってきた約30年の間にもこの類の概念や疾患名が目まぐるしく変化してきた。私は統合失調症や双極性障害のようないわゆる病気らしい病気にはあまり関わらず(というかあまり興味がなく)、不登校、ひきこもりといった精神疾患というより家庭や学校などの問題とも、思春期危機ともとれるテーマを扱ってきたので、医学モデルは実に使いにくい。ひきこもっている本人とは会えず、親と接する機会が多かったので本人の内面以上に家族など本人を取り巻く文脈まで広げた見立ての方法論を探し求めていた。


2013年9月12日木曜日

ひきこもりの不安に向き合う勇気

A君はちゃんと現実に向き合っていると思います。
自分の恐怖心を言葉に表して向き合っていますね。

  • 将来への不安:このままひきこもっていたら将来、親がいなくなり野垂れ死ぬ不安。
  • 自分の評価が低い不安。自信がない。
  • 就職する不安。履歴書を書いたり、面接したり。
  • 人との関係の不安:怒られたり、否定されるかもしれない。

ふつう、人は恐怖心を避けます。恐怖に向き合おうとしません。危険ですから。
でも、A君はカウンセリングを続けた結果、ここまで来ることができました。

このままではいけない。どうにかしないといけない。
そのためには自分の弱さと向き合わねばならない。

理屈で考えればそうですよね。至極もっともなこと。
でもそれを実行するにはとてつもない勇気がいります。

ひきこもり、人を恐れるA君は弱いです。
でも、その恐れに向き合おうとしているA君はとても強いです。

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Bさんはたくさんの不安を抱えていますね。
それにきちんと向き合っている。
素晴らしい勇気をお持ちです。

戦争による疎開、いじめられ体験。
結婚だって、当時は親の言うことを聞くしかなかったのでしょう。
夫婦ふたりだけの時はまだ良かったけど、子どもたちが生まれ孤軍奮闘、本当にきつかったでしょう。
それまで黙って従っていたご主人に、いろいろ言いたくなるのも当然です。

本当は家族みんな仲良くしたいのです。

当然です。でもBさんにとってそれはとても困難なことでした。

私はどうしても素直になれないんです。

いや、こうやって話しているあなたはとても素直ですよ。素晴らしい。
Bさんの人生には多くの不安・恐怖が渦巻いていました。不安の下では素直になれません。いや素直になってはいけません。相手に攻め込まれ、自分が崩れてしまいます。危険すぎます。
こうやって、安全な環境下では、きちんと素直になれますね。あなたはベストを尽くしているんです。

いや、これもひきこもっている息子のおかげなんです。
息子のことを何とかしたいと思って、こうやって自分を振り返ろうとしています。

そうですね。でも、それも難しいことなんですよ。家族に問題を抱えていても、素直になって自分を振り返ることができない人はたくさんいますよ。
Bさんは素晴らしいです!

2013年9月7日土曜日

心配係と承認係

A君のエンジンはかかりはじめたものの、まだまだ本調子ではありませんね。ちょっと走ったかと思ったら、エンストして止まってしまったり。
この時期、親の役割はふたつあります。

  • 心配係:A君のエンジンがストップした時に、「それじゃあダメだよ」とダメ出しをして心配してあげる係です。
  • 承認係:A君の良いところを、「そうその調子。それで良いよ!}と肯定してあげる係です。

お母さんは、心配係は得意のようですね。

はい。
ちゃんとご飯を食べて栄養を取っているかとか、健康は大丈夫だろうかとか、あとはスポンサーとしてお金のことなど常に心配しています。

給食係と保健係と大蔵省ですね。
それはとても大切なことです。しっかり心配してあげてください。そうしないと、A君はまだまだダメですから。
でも、承認係はあまり得意でないようですね。

承認というのはどんなことをすれば伝わるのでしょうか?
表現が薄く、気持ちが伝わらないことに悩んできました。
思えば、両親から誉められた経験がほとんどありません。妹が弱かったので母は妹につきっきりでしたし、夫婦仲があまり良くなく、お姑さんもいたので、母親はほとんど余裕がなかったのだと思います。姉である私は何でも一通りこなすことができたので、ほとんどほっておかれました。その後も母親からは承認されないまま亡くなってしまいました。父は仕事が忙しくて、家庭にはほとんど関わらない人でした。

確かに、「承認」というのは気持ちの問題ですから、ハウツー的に「よくがんばったね。それで良いよ。」と言ってみたところで、妙にしっくりこなくてわざとらしくなってしまったりします。
他者を承認するためには、自分が承認を受けた体験がとても大切です。
承認を受けた人は、あえて意識しなくとも自然に人に承認を与えることができます。
承認を受けた記憶がない人は、いくら意識してもぎこちなくなってしまい、人に承認を与えることをとても苦手に感じてしまいます。

なぜ私が苦手なのかよくわかります。
私が親から褒められて嬉しかったと感じたことは一度だけ、大学に合格したときだけです。

承認を受けた記憶が出てきましたね。それはとても良いことです。どんな具合だったのですが、よく教えてください。

合格を知らせたら父が「おめでとう」と言って、私と握手しました。

その時、どんな気持ちがしましたか?

実は第一志望の大学ではなかったんです。とりあえず受かったけどホントにこれで良いのだろうかよくわからなかったのですが、父と握手して、自分がやってきたことは間違いではなかったのだという確信を持てました。

そう。その感覚が大切なんです。お母さんはとても大切な記憶をよみがえらせることができましたね。
A君は今、まさにそれを必要としています。人よりだいぶ遅れてしまい、とりあえず今、エンジンをかけてみたものの、ホントにこれで良いのだろうか、今さら走り出してももう手遅れなのではないだろうか、もうオレの人生は台無しになってしまったのかもしれないと戸惑っています。
「遅れても構わない、今のカタチで前に進めば良いのだよ、それで大丈夫だよ」と承認してくれる人を求めています。
大丈夫。お母さんは承認された体験をお持ちだから、A君の承認係をしっかり務めることができますよ。

はい。自信ないけどがんばってみます。

、、、こうやって承認係は苦手ですというお母さん自身を私が承認して、お母さんがA君を承認できるように支援しました。承認の連鎖ですね。