2013年6月10日月曜日

母親の物語(3)

母との二人旅は久しぶり。というか、ふたりだけの旅行なんて過去にあっただろうか?
通勤電車に乗れば、みんなさっと席を譲ってくれる。明らかにそういう歳なんだ。
新幹線に乗ると、タイムスリップが始まる。ボソボソと昔話を語りかけてくる。原稿書きも読書もできない。まあ、希有な機会だ。母の話を聞こう。

そう!二回目のお見合いだったんだ!
仲人のハタノさんはフジボウの元工場長さんだったんだね!

京都駅でK子伯母さんと合流した。
とたんに80歳と82歳のお婆婆が童心の姉妹の顔になる。
母親が神戸の大学にいた頃、おばさんは京都へ嫁ぎ、長男が生まれたばかり。週末はすることないから(?)、よく京都に遊びにいった仲の良い姉妹。
福山までずっとしゃべりっぱなしだった。
「ものわすれ」の始まっている伯母さんと耳の聞こえが遠い母親でもちゃんと話は通じているようだ。話の内容はともかく、笑い声が絶えない。
福山駅からレンタカーでしまなみ海道をドライブして伯方のA子叔母さんと合流。
かしまし三姉妹の久々の再会だ。
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57年前、母親は四国の田舎から見合いでひとり大都会に出てきた。
翌年、私を産んだ。
知り合いは東京に嫁いでいた長姉だけだったのではないか。私が小さい頃は、よく大塚の「さだこばちゃん」の家に遊びに行った。
「おばちゃんはお料理が上手なのよ。」
私と妹はいとこのお兄ちゃんと近くの公園で遊び、母は姉から主婦の指南を受けていたのだろう。

母親は子どもの目にも頼りなかった。
嫁いできた当初、方向オンチだった母は、買い物に出かけ、家に戻れなくなって迷子になったという。
何かの用事で横浜まで外出し、大森に戻るときJR(当時は国鉄)の京浜東北線に乗るはずが、京浜急行に乗ろうとする。真っ赤な車両はどうみても普段乗る京浜東北線ではない。
「ママ、これでいいの?」
「良いのよ、品川に行くと書いてあるから」
そりゃあ品川は行くけど大森は行かないでしょ。

母は喘息持ちだった。嫁ぐ前はそんなことなかったという。埃がダメで、布団の上げ下げはできずに父親がやっていた。喘息は私が成人になる頃まで続き、その後は自然に回復した。今から考えれば東京の空気が合わなかったのか。何かの心因があったのかもしれない。23歳で故郷から遠く離れた大都会での生活自体、特に具体的な問題がなかっとしても、喘息を引き起こすほどの慢性的ストレス状態であってもおかしくはない。

一度、家で倒れたこともある。
トイレから出て意識を失い倒れた。今から振り返れば起立性低血圧だろうが、洗濯機に頭をぶつけたからなのか、意識を回復した後も「ここはどこ?私はだれ状態」、失見当識状態が続いた。父が早く家に帰り、かかりつけの町医者が往診に来てくれ、「おかしい」状態が2−3日ほど続いたのではないだろうか。父親は「ああこれで妻はおかしくなっちゃうのか、、、」不安だっただろう。

そんな頼りない面とは矛盾しているが、母はとても生き生きと元気だった。
専業主婦として子育て以外に社会との接点を持たない母は、子育てを通じて地域のネットワークを作っていった。
母は明るく能天気、人付き合いが良い。その性格は私にも受け継がれていると思う。
人望や指導力があったとは子どもの目からとても見えないけど、小学校でも中学校でもPTAの副会長まで出世した。私の番でPTAにデビューして、2歳下の妹のとき役職についた。PTA活動の様子は知る由もないが、多くの保護者や先生と交わる母の姿はとても生き生きしていた。

家では近所の子どもを集めて小さな英語塾をやっていた。私も小学生5年くらいになると一緒に混じり、食卓で英語の単語カルタで遊んだりしていた。
ピアノも親子で習っていた。私としてはりっぱな先生だが、母から見れば年下の女の子だろう。レッスンよりも話し相手だった。
母親は社交的で良く人と交わっていた。
父親は人付き合いが良い方ではなく、晩の帰宅も早かったし、週末に家を空けることは少なかった、
私は母親の性格を引き継いだと思う。

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