2013年3月24日日曜日

不安のスパイラル

クライエントが亡くなった。

といっても、ご本人には一度もお会いしていない。
ご家族とは何度もお会いしている。
家族を介して支援できるはず、家族が元気になることで、本人も元気になるはずと信じて関わって来たのにダメでした。
支援者としての失敗感、無力感、挫折感で辛い。
心の病気は身体の病気のように病気そのものが命を奪うことはない。
しかし、自死で命を失うことがある。

私はもっとうまく支援できなかったのだろうか。不十分・不適切だったのではないだろうか。考えても仕方がないマイナスのスパイラルに入り込んでしまう。

私のスパイラルはまだ良いはずだ。
遺されたご家族は、これから壮絶な苦しみを経ることになる。
今までだって辛かったのに、それ以上に辛いことは、ご家族の崩壊の危機だ。
なんとか支援できないだろうか。
診察料は無償でも良いから来てほしい。関わりを求めて欲しい。このような危機状態で救いを求めることが如何に困難かよくわかっている。こちらから救いの手を差し伸べたい。

というのは私のエゴに過ぎない。
私がぶれてはいけない。私の気持ち(償い)のために治療の枠組みを崩してはいけないのだ。

でも、どうしてもぶれてしまう。どんどん気持ちが縮んでしまう。
訃報を受けた日に、他のクライエントへの言葉はあれで良かったのだろうか。
きっと良くなかったんじゃないか。

「ふっきりなさい!」
と私は言ってしまった。
それは間違いではないのです。
その不安を乗り越えないと、前には進めないし問題も解決しないということは十分理屈でわかっている。
それと同時に乗り越えられないことも十分わかっている。
それなのに、「ふっきりなさい!」と迫っても、クライエントさんを追い詰めるだけだ。私の言葉は不適切だったのじゃないだろうか。
もっと丁寧に不安を扱わねばならない。
不安のタネをよく吟味しなければ、不安は解放できるわけがない。

でも、どこかでふっきらねばならいのは確かなんです。
不安の淵を飛び越えるか、
不安の淵に降りてゆき、その中身を確かめるか。
どちらもとても辛いこと。どこかで意を決しなければならない。どこかで背中を押してあげなければならない。
しかし、焦ってはいけない。不用意に押すと、傷つけてしまう。
十分な信頼感と承認が得られて、はじめてそこまで達成できるのです。

私はそこまでやれただろうか? 
やれていないような気がする。弱気になっている。

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