2013年3月18日月曜日

【海外の動向】スーパーヴァイザー研修に参加して

2012年の秋に台北で開催された家族療法スーパーヴァイザー研修に参加した。
講師のシェリル・ストーム(Cheryl Storm)AAMFT(アメリカ夫婦家族療法学会)の認定スーパーヴァイザー(以下、ヴァイザー)であり、2011年のCIFA東京大会でも来日してワークショップを開いた。石井(2008)が紹介したアメリカの家族療法スーパーヴィジョン(以下、SV)に関する2冊の教科書のうち、シェリルらが著した教科書(Todd, 1997)は中国語と韓国語に翻訳され、アジア各地で研修を行っている。もう一冊(Lee, 2003)は和訳され当学会の参考図書となった。

 研修は2回の週末を使って5日間開催された。少数25名の参加者が5日間集中するとかなり深い学びができる。私はこの研修に参加していかにSV経験が未熟であったことに気づき、ヴァイザーとしての経験を深めることができた。学会の認定を受ける前にこの研修を受けていたら良かった。もっとも、誰でも何かの学び体験を得てレベルアップすれば、それまでが未熟だったと感じるだろう。そうは言ってもそれまでだってそれなりにやっていたのだろうし、レベルアップしたと思っていても未熟な部分は残っているはずだ。相対的な感覚という意味だ。
研修を受けて気づいたことを箇条書きに挙げてみる。目から八つのウロコが落ちた。

第一に、SVの概念が広がった。私は今までSVを狭くとらえていたようだ。「ヴァイザーと呼ばれる人と契約して継続してセッションを持つこと」というイメージを持っていたので、私そんな体験あまりないけど、、、と首をかしげてしまう。研修に参加してSVはもっと広義にとらえてよいと理解した。SVは「セラピストが臨床技術を向上させるためのすべての機会」と言いたいところだが、それだと広げ過ぎかもしれない。そこにはヴァイザーという固定した人物が必要だし、単発ではなく継続した機会でなければならない。そこまで枠を広げれば私もいろいろやってきた。病院での臨床実習、大学・大学院や医局などでの事例検討会、さらに教師や先輩とのインフォーマルな会話も含めれば、あれこれやってきた。日本ではSVという言葉は使わないが、医局とか研究室といった閉ざされた組織の中で臨床教育が行われてきた。そのプロセスをもう少し体系化したものSVなのだ。

 第二のウロコは、ヴァイザーは「長老」でなくても良いということだ。研修には新人セラピストを教育する30-40代の中堅層も多く、未熟だと自認していた私でも「長老」の部類に入ってしまう。ヴァイザーは「スーパー」が付くぐらいだから、長年の経験を積み、臨床を知り尽くしたベテランがなるものと思い込んでいた。しかし、臨床現場では若く臨床経験の浅い臨床家を育てるニーズが高い。彼らを指導するのは中堅層であるべきで、長老は中堅を指導するメンター(ヴァイザーのヴァイザー)であるべきであろう。
シェリルとランチを取りながら、日本がSV制度をやっと立ち上げた状況を話した。それにシェリルが応えてアメリカの一番の間違いは、十分なヴァイザーを確保できず、しかも地域的に偏在しているので、家族療法を学びたい人に十分な機会が与えられないことを強調していた。
当学会のSV認定の要項をみても、ヴァイザーは「家族療法の主要な複数のモデルに関する知識に精通し、それらの前提となっている理念、およびセラピー実践上での意義をスーパーヴィジョンの過程において示すこと」とあり、私も申請するとき尻込みしてしまった。現段階で認定された5名のヴァイザーたちは、みな評議員レベルの「長老」の方々だ(自分も含まれているので口幅ったいが)。もっと中堅層に機会を広げるべきではないだろうか。
学会としても認定SV制度は初めての体験である。「なんだあの学会の認定はたいしたことないね、レベル低いね」とそしりを受ける不安(自信のなさ)を抱えていると、どうしても基準レベルを上げたくなる。そうなると、ヴァイザーに認定される人が少なくなり、臨床を学ぶ機会が得にくいというジレンマに陥る。SV制度が始まった初期段階では、とりあえずヴァイザーを増やすことが先決ではないだろうか。資格を与え自覚を持ってもらってからヴァイザーの質を維持向上していくためのメンタリングのシステムを学会は整えなければいけない。

第三のウロコはSVのやり方の多様性だ。A) ライブ(ワンウエイミラーを使うか、共同治療者またはリフレクティング・チームとして一緒に入る)か、振り返り法によるか(セラピー場面を記録したビデオやテープを一緒に聴く方法、逐語記録、各セッションのサマリー、事例全体を通したサマリーを持ってくるか、事前には用意せず記憶にたよった振り返りなど)。B) 人数(個人か、二人か、3人以上のグループ)、C) 対面で話し合うか、メディア(電話、スカイプなど)を用いるかなどさまざまだ。これらの選択肢の中で、一方が他方より優れているということではない。指導するヴァイザーの好みによって「私はこのやり方です!」と規定するよりは、ヴァイジーの希望やそれぞれのSV文脈の中で其々の方法を選び取るのが良い。ヴァイザーはそれぞれのやり方のメリットとデメリットを把握し、柔軟に対応できることが必要だ。そのためには、ヴァイザーも多様なSV経験が必要になる。

 第四のウロコは、SVのための特別な理論や技法があるわけではない。臨床家は自分が得意とする理論や技法を用いてセラピーを行ってきた。セラピーとSVは異種同型性の並行プロセス(isomorphism)である。セラピーもSVも対人援助である。セラピストがクライエントとの関係に用いてきた考え方や技法を、無意識のうちにヴァイジーとの関係においても使っているはずだ。研修ではそれをワークなど通して確認することができた。

 第五のウロコは、SVの倫理とは杓子定規ではなく臨機応変にとらえるものだ。私は杓子定規が苦手で、臨機応変が好きな人間なのでこれは助かった。SVの倫理はとても重要なテーマであり、研修でも多くの時間を割いた。SVでは倫理のジレンマは避けてとおれない。倫理規定が先にあって、それにSV臨床を当てはめるという考え方ではない。倫理規定というガイドラインにうまく当てはまらない状況が出てくる。セラピーが教科書的な理論・技法を念頭に置いて、各事例の状況に応じて臨機応変に応用するのと全く同じように、SVも倫理規定を念頭に置いて、各SVの状況に合わせて一番妥当な方法を模索するプロセスなのだ。セラピーに事例検討が必要であるのと同様に、SVにも事例検討が必要だ。
SV倫理ジレンマの代表例が次のふたつのウロコである。

 第六のウロコはSVの関係性の複雑さである。SVはヴァイザー・ヴァイジー関係と、セラピスト(=ヴァイジー)・クライエント関係というふたつの関係を並行して扱うので、守秘義務、危機管理、責任の在り方が複雑になる。ヴァイザー・ヴァイジー関係にしても、他の関係性がない個人契約による場合が一番単純で整理しやすいが、実際はそうでない場合がたくさん出てくる。たとえば教育機関・相談機関などでのSVは組織内での上司・部下であったりする。ヴァイザーがヴァイジーを評価する場合には、そのことがSVにおける力関係に影響を及ぼす。評価が不要であれば共感・支持を基本にした双方向的・共働的なSVが可能だが、評価が入ってしまうとヴァイザーの言葉が重くなり、タテ関係的・一方向的な伝授スタイルをとらざるを得ない。

 第七のウロコがSVとセラピーとの棲み分けの問題だ。SVでセラピスト・クライエント関係を扱う際には、ふたとおりの焦点がある。ひとつはあくまでクライエントに焦点を当て、その理解(アセスメント)、支援方法を掘り下げる立場、もう一方はセラピスト(ヴァイジー)に焦点を当て、ヴァイジーの臨床の見方、考え方、立ち位置などを掘り下げる立場である。ヴァイジーの臨床能力を高めるために、このふたつとも重要だ。しかし後者を深めていくと、ヴァイジー自身の人生経験が浮き彫りになり、当初は見えなかったヴァイジー自身の人生の困難さが見えてくることがある。それが臨床能力に関連していれば、SVという枠組みの中で取り上げる方法と限界を検討しなければならない。単純に「SVではセラピーをしてはいけない」という一言では片づけられない課題となる。

 第八のウロコがメンタリングの重要性だ。六番目と七番目のようなウロコをうまく落とすためには、倫理規定という決め事だけではなく、じっくり検討するメンタリングというプロセスが必要であり、それを通してヴァイザーとしての臨床能力が高められる。

 まる5日間ともに過ごして、台湾の臨床家たちやシェリルとも親しくなった。我々のSV認定制度は始まったばかりだ。このような研修は確実にSV臨床の腕を上げる。再会を約束して台北を後にした。

文献
石井千賀子(2008)米国における家族療法スーパーヴァイザー教育の文献紹介。家族療法研究, 25(2): 180-183.
Lee, R., Everett C. (2003) The Integrative Family Therapy Supervisor: A primer. Routledge. 福山和女、石井千賀子訳「家族療法のスーパーヴィジョン―統合的モデル—」金剛出版, 2011
Todd, T., Storm, C. (1997)  The Complete Systemic Supervisor: Context, Philosophy, and Pragmatic, iUniverse.(中国語と韓国語に翻訳されている)



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