2013年12月5日木曜日

夫婦カウンセリングの受け方

<質問>
夫婦関係で色々と悩んでいます。
私が悩んでるということは妻も悩んでいると思います。
思い起こせば〇年前にこの人となら幸せな家庭を築けると思い結婚しました。
でも、いつの間にかすれ違うことが多くなり、気付けば話し合うことができなくなってしまいました。話し合おうとしても喧嘩になってしまい、結局イヤな気持ちだけが残るそんな関係が苦しくて仕方ありません。気持ちを話して傷つくのが怖くなってしまいました。

私たちのような仮面夫婦はきっと世の中にたくさんいらっしゃると思います。
努力もしないまま、関係が改善なれないまま一緒に過ごすのはとても苦しいのでなんとか歩み寄れないものかと思います。
昨日、勇気を出して妻に夫婦カウンセリングの話をしたら、幸い同意してくれました。

そこで質問なのですが、

  1. カウンセリングは夫婦揃って受けた方が効果的なのでしょうか?カウンセリングを受けたことがないので分からないのですが、妻の前で私の気持ちを話すことは、ちょっと抵抗があります。本当はそうしないといけないわかっているのですが、それができない自分を恥ずかしく思います。
  2. お互いの言い分を紙に書いてくるなど、何か準備するもの、持参するものがありますか?

<お答え>
カウンセリングの効果はおひとりか、夫婦そろってかによって差が出るというものではありません。
大切なことは、本当の気持ちを話せる環境づくりです。そのために、ご夫婦別々にお話しいただくか、ご一緒に相談するか、自由に選択します。
さまざまな選択肢があります。

  • 初めご夫婦別々にお話しいただき、その後、ご一緒に話し合うこともできます。
  • 1時間の相談時間を三等分して、お相手は待合室でお待ちいただき、1)夫ひとりで、2)妻ひとりで、そして3)夫婦いっしょに相談することもできます。
  • あるいは別々の日にご夫婦それぞれのお話を伺い、また改めてご一緒に相談することもできます。
  • ふたりで話し合おうとすると喧嘩になってしまう場合、カウンセラーが行司(第三者)として入り喧嘩にならず安全に話し合える場を作ることもできます。
  • おひとりだけで夫婦カウンセリングにいらっしゃることもできます。
  • おひとりのお話を伺い、なぜ相手は夫婦カウンセリングに来たがらないのか。どのように誘ったら来てくれるだろうかということを相談することもできます。
  • 夫婦が仲良くする道を選ぶのか、勇気を出して別れる道を選ぶのかが混とんとして自分でもわからなくなった時、そのことを整理するためにご相談することもできます。
  • どのように考えたら子どもと自分自身の将来のために離婚を肯定的な解決策として選べるのかを相談することもできます。

どれを選択してよいかわからないときも、話し合う中で自分自身だんだんと見えてきます。
何も準備するものも持参するものもありません。
「困った、、、どうにかしなければ、、、」という困り感だけお持ちください。

2013年12月3日火曜日

ひきこもる子どもに親の自信を伝える

Q 「親の会」に参加して基本は「あるがままの子どもを受け入れる」「見捨てず愛していく」と教わりました。ただ、私はそれができていないし、どうすればそうできるかもわからないのです。
 息子は、前のバイトをやめて2週間になります。私からは何も言わずにいたほうがよいのでしょうか。何も言わずに、私は待つべきなのでしょうか。もしくは、親としてどう働きかけていけばいいのでしょうか。

「あるがまま」という言葉には深遠な意味があります。

よく勘違いされるのは、外に出ずにひきこもっている状態を「あるがまま」とみなし受け入れてしまう場合です。それは本来の「あるがまま」ではありません。子どもの表に出ている行動を受け入れるのではなく、その背後にある子どもの本当の姿を受け入れることです。「今はひきこもっているかもしれない、態度が悪いかもしれない、怠けているかもしれない。でも、本当はこいつは良いやつなんだ」という具合に子どもの行為や状況に左右されない、その根底の人間性を受け入れるということです。それは親の肯定的な愛を子どもに伝えることです。基本的には良い子と信じることができるから成功する局面を念頭に置き、失敗の可能性を過度に心配せず何も言わず待つことも、あるいは親からこうしなさいと強く伝えることもできます。

親:「大丈夫、今はできなくても本来君はできるんだから。」
子:「なぜそんなことわかるの?」
親:「いや、具体的な根拠はない。でも君はできると親は信じているよ。」

親の愛は肯定的な愛と否定的な愛の二種類があります。

否定的な愛はいつも子どものことを心配しています。子どもの根底を信じていないので、本当はこの子はNG (No Good)なのではないだろうかと、マイナス側の見通しを念頭に置きます。このままひきこもっているとダメになるのではないか。子どもにはっきり言ったら怒るのではないか、絶望して崩れてしまうのではないかと考えます。だから子どもの気持ち逆らえません。子どもに常にイエスを出して、子どもの言い分を肯定します。それは「あるがままを認める」わけではなく子どもの言いなりになっているだけです。それが「甘やかし」です。

肯定的な愛は、親の判断として良くない部分やわがままな部分が見えれば、はっきりNOと言います。子どもはまだ善悪の判断が不十分です。将来のことをどう判断してよいかまだよくわかりません。親の目から見て良い部分はたっぷりYESを与えます。親の目から見て望ましくないと思えば、はっきりとNOを伝えます。なぜなら、子どもの本質を信じているから、否定しても必ず立ち直り前に進む力を持っていると信じます。

否定的な愛は心配し、用心して、子どもが前に進もうとしてもストップがかかってしまいます。

肯定的な親の愛は、心配や不安を乗り越え、子どもが前に進む原動力を与えます。

子どもには肯定的な愛が必要です。特に思春期の疾風怒濤の嵐にぶれずに立ち向かい、自信を持って他者と交流して、しっかりとした自分を創り、親の保護を離れて自立するためには、自分自身のことを肯定できることが不可欠です。それがあれば周りから多少は否定されても傷つかず、ぐらつかずに「自分はこれで良いのだ」という肯定感を維持して前に進むことができます。自己肯定感が足りないと、まわりのちょっとした出来事によって心配になったり傷ついたり、あるいは人から侵害された(いじめられた)気持ちになり、怒ったり、ひきこもったり、うまくやっていく自信を失います。

子どもが自分のことを肯定して自信を持てるようになるために、親は肯定的な愛情をたっぷり与えます。それは親だからできることです。それができるのは身近にいて子どもが絶対的に信頼する人です。
人はだれでも良い部分と悪い部分が共存しています。思春期は前向きの自立心と、後ろ向きの依存心が共存しています。後ろ向きの気持ちは、まだひとりではダメで何もできないので誰かに依存して面倒見てもらわないとうまくいかないと考えます。ものごとがうまくいかないのは周りの人のせいにします。その逆に前向きの気持ちは自分の力で困難を切り抜け自信を得たいと願います。前向きと後ろ向きの気持ちはどちらがホントでどちらがウソというわけではありません。両方ともホントの気持ちであるところがわかりにくいところです。ひきこもっているのは後ろ向きの依存心から出てきます。ひきこもりはじめると、それまで健在だった前向きの気持ちが後退して依存心が拡大してゆきます。それが退行現象と呼ばれます。子どもの依存心から発するニーズ、たとえば親に責任を転嫁したり、人と交わることを避けようとする欲求などを親が「あるがまま」に受け入れてしまったら、後ろ向きの気持ちがどんどん増えてしまい前に進めなくなってしまいます。

甘えたい気持ちや依存心を認め、受け入れることは大切です。しかしそれだけではダメです。少しずつ芽生えてきた前向きな自立心をしっかり認めます。

「あれ、きみ結構大人になってきたね。」

と、自立したい気持ちに注目してあげると、その部分が成長します。親の言葉は子どもに大きく影響します。

「そうなんだ、オレってけっこうできるんだ!」

と自信を増やしていくことができます。

しかし、これは思いのほか難しいものです。家にひきこもり、心がすっかり後ろ向きになってしまった若者は、本来持っているはずの前向きの気持ちを引っ込めて隠しています。自立したい気持ちを見出すことは至難の業です。それをうまく引き出してあげるためには、親自身が持っている「肯定する力」を使います。

前向きの気持ちと後ろ向きの気持ちが混在しているのはなにも思春期に限らず大人も同様です。親が子どもを見る眼差しはプラス(肯定的)になったりマイナス(否定的)になったり常に揺れ動いています。親の気持ちが前を向くと安心と自信が芽生えます。すると子どもの甘えや依存心はあまり気に留めず、時々垣間見せる自立心を目ざとく見つけ出すことができます。その逆に親の気持ちが後ろを向くと、子どもにうまく接する自信を失い不安な気持ちで満たされます。すると、子どもの気持ちがたまに前向きになってもそれに気づかずに素通りしてしまい、子どもの弱気な部分や依存心に波長が合うのでよく拾い出してしまいます。

したがって親が子どもの前向きな自立心を育成するには、親自身の気持ちを前に向かせて心が元気でいることが大切です。弱っている気持ちからはどんなに努力してもマイナスのメッセージしか出てきません。気持ちが前に向くと、特に意図せずとも自然にプラスのメッセージが出てきます。

親が肯定的な愛を発揮して子どもに接すると次のようになります。
子どもがひきこもりはじめた時、なぜひきこもっているのかを尋ねます。夜眠れなくて朝起きれないから、体がだるいから、疲れたからかもしれません。あるいは人の中に入っていく自信がない、自分がまわりの乗りについていけず浮いてしまっている気がする、勉強についていく自信がない、友だちや同僚からいじめられている、強い友だちに顔向けできないなど何か困難な状況があり人との関わりを避けているのかもしれません。そのような事情を聞いて、親はしっかり理解して受け止めます。それに対して叱咤激励しなくても構いません。しっかり受け止めること自体が大きな励みになります。アドバイスも不要です。子どもから尋ねてきたらそれに答えてあげますが、何も尋ねてこない時に親からアドバイスすると押しつけになってしまいます。あるいは、なぜひきこもっているのか何も事情を話さないこともよくあります。その際には無理に聞き出しません。語りたくない事情があったり、語る心の準備が出来ていないのでしょう。もう少し待ちます。

子どもに尋ねる際に最も大切なことは親がマイナスのオーラ(=内面から出るエネルギー)を与えないことです。詰問調になったり怒られるかもしれないと思うと、子どもは話せなくなります。ひきこもる時には必ず何らかの事情があります。まずそれを理解して受け止めます。そして、子どもの力を信じて待ちます。親の心が元気であれば、「いま子どもは困難に直面し心と身体の調子を整えるためにひきこもってしばし休息しているだけで、時期が来れば自分の力でまた前に進みだすだろう」と考えることができます。心配する必要はありません。親が心配すると、子どもも心配になってきます。子どもの回復力を信じて安心して待ちましょう。

このようなことは理屈ではわかっていても、なかなかうまくいかない時があります。子どもを信じるべきとはわかっていても信じることができず、不安な気持ちが一杯になってしまいます。その時は、子どもの心に向き合う前に、親自身の気持ちに向き合い、心を前向きに整えます。

たとえば子どもに対する苛立ちや怒りを抱いているとしましょう。こんなに親はしてやっているのに、なぜ子どもは親の言う事を聞かないのか、なぜちゃんと真剣に向き合わないのかと苛立ちます。怒りや苛立ちというのは、不安・恐怖の防衛です。怒りの背後には不安が隠されています。それが何かを突き止めれば、なぜ自分が子どもに怒っているのかが理解できます。その気持ちをまず十分に表出することが大切です。
親が子どもを怒り、苛立つとき、実は親は大きな不安を抱えています。その時は、子どもに怒りを伝えるのではなく、その根底にある不安を子どもに包み隠さず話してみます。親はどれほど子どものことを心配しているか親がどれほど発狂しそうなほどに子どものことを真剣に考えているか。それはとりもなおさず親の愛を伝えることになります。

子どもに怒り、苛立っていると、自分は本当に子どもを愛しているのか自信がなくなります。怒る時は、必ず子どもを心から愛しています。しかし、その愛が不安のために曇ってしまい、怒りという表現に転換されています。その場合は、怒りの背後にある子どもに対する不安感を自分自身で認めなければなりません。それは辛いことです。しかし、不安な気持ちを表現して自分自身で受け入れることができれば、怒る必要がなくなります。

怒ったり苛立たずに不安を伝えるためには、親の気持ちが前向きになっていなければなりません。前向きに不安を語れるということは親がその気持ちを相対化して乗り越えていることを意味します。不安を伝えるのはとても勇気がいることです。親は苦悩し、不安に押しつぶされることなくちゃんと向き合うことができている。苦悩しても構わない。苦悩しても心が崩壊せずにちゃんと立ち直れているという姿を子どもに見せると、子どもはとても安心します。親が自分の弱さを見せることができれば、子どもも自分の弱さを認め、弱さを抱えながらも前に進むことができるようになります。

また、親は子どもの怒りを怖がる必要はありません。怒りは相手に怖さを与え、相手を遠ざけます。怖くなるのも当然ですが、親は怖がらずに踏みとどまります。子どもの怒りの背後には不安が隠されています。そこにアプローチします。子どもを信頼して「大丈夫。きみならできるはずだから心配しなくても良い。」と丁寧に伝えます。そうやって不安が解除されれば、自然と怒りも収まり、落ち着いて話す事ができるようになります。

思春期は、本人にとっても親にとってもとても不安な時期です。不安に押しつぶされてしまうと前に進めなくなります。親ができることは、親が抱える不安に向き合い、それを解き放すことです。それができれば、子どもも同様に不安を乗り越え、前に進みだします。

 思春期に前に進む原動力は安心感です。親が不安に駆られていると、子どもも不安になります。親が安心な気持ちでいれば、子どもも安心します。親は子どもに「「君ならどんな境遇でも大丈夫。ちゃんと親が見守っているよ。見捨てることはないよ。」と安心を伝え続けてあげて下さい。

Q)正直、今まで子どもに関わり過ぎていたと反省しています。しかし、急に関わらなくなると、子どもは親から見捨てられたと感じるのではないでしょうか?

親の愛を子どもに届けることをやめてしまったのが、「見捨てる」ということです。子どもは前に進む力を親から受け取る事ができません。親は子どもを見捨てず愛し続けます。

しかし、「見捨てない」ことと「子どもを離さない」ことを混同している親がみられます。思春期になっても、いつまでも子どもに手を貸しているのは、子どもにマイナスの愛を与えていることになります。子どもの自立を認めていないことになります。子どもの成長を信頼すれば、親は子どもが問題に直面しても自分で解決するだろうと信じます。そうすれば、子どもの状況を把握しなくても、子どもが困難な状況に直面しても、すぐに手を貸さず離れたところから見守ります。
すると、子どもは始め戸惑いを示します。子どもは幼さとしっかりした側面のふたつを持っていますが、幼い心は、親に依存して自分ではできない、親に助けてほしいと依頼します。親はその手に乗ってはいけません。もう一方の自立心した心の方を支援してあげましょう。

「そう、あなたはひとりでできるよね。だから、親はもう手を貸さなくても良いでしょ。自分でがんばってみて!」

と愛し続けるゆえに手放していってあげます。これは、子どもを見捨てているのではなく、子どもの力を信頼して、しっかりと見守っていることを意味します。

2013年11月25日月曜日

子どもの問題と夫婦の成長

A子さんとE夫さんが子どもの相談にやってきました。

息子の問題は「心の病気」と思ってきました。今まで病院の先生からもそう言われてきました。
しかし、両親は今ひとつ腑に落ちません。子どもはしっかりしている側面もあります。でも、その反面、とても未熟で成長し切れていない部分があります。病気ではなく性格の問題なのだろうか。よくわかりません。

子どもの問題とは関係ないのですが、家族の中に越えがたい壁があります。
こうやって、夫婦で揃って相談に来たのは初めてです。

一見とても仲の良さそうなご夫婦なのですが、話していても何となく不自然な雰囲気です。
それもそのはず、家では子どものことなど家の中の大切なことを夫婦が一緒に考えて話し合いません。「ご飯どうする?」「今日は遅くなるよ」といった表面的な日常のやりとりしか会話がなく、それ以上深い会話ができません。
夫婦お互いに向き合うことを避けてきました。
夫婦の間には越えがたい壁があります。

  • 双方の実家のこと、、、
  • まだ子どもが生まれる前からの葛藤、、、
  • 子どもの育て方の違い、、、

それらはどうしようもなく長年、家族の中に横たわってきました。
そのことを話そうとすればケンカになってしまいます。だから触れないように、語らないように避けるしかありません。子どもの問題についても、本当は夫婦でじっくり話し合いたかったのですが、残念ながらできませんでした。

いい歳をして成長しきれていない子どもに対して、親として本当はこう伝えたい。伝えなければいけない、、、
という思いはあるのですが、なぜかちゃんと伝えられません。
もしかしたら、誰に対しても「本音を伝える」ということをしてこなかったからかもしれません。
何となく怖さを感じてしまいます。どう子どもに向き合ったらよいのか、親としての自分にウソをついているようで、なんとも申し訳なく思います。

このように話していると、どうも夫婦の問題と子どもの問題は関連していることに気づきました。
いや、そのことは前からわかってはいたのですが、それを私自身認めるのが辛くて避けてきました。
子どもの問題を乗り越えるためには、やはりこれまでの夫婦の壁に向き合わないといけないのかと思うとやりきれない気持ちです。

1回相談しただけでずいぶんと目からうろこが落ちた気持ちです。
この後どうしようか。家に持ち帰って少し考えてみることにしました。

第三者を交えて相談しているときは夫婦が向き合わねばと思ったのですが、家に帰り日常に戻るとその気持ちはどうしても薄れてしまいます。そうしなければいけないとは思うのですが、やはり無理です。もう何年もそのことはわかってはいたのですが、どうにもなりません。
もう疲れました。今さら第三者を交て話し合っても無駄です。

その一方で、子どもの問題はどうにかしないといけません。とりあえず息子のことを相談するために、E夫だけひとりで相談に行くことにしました。

父親として子どもにどう関わっていいのかよくわかりません。今までやってきたことは間違いだったんだろうかと自信がありません。
でも、それが大きく間違っていないと先生に言われました。ほっとしました。
子どものことは少し安心できたのですが、やはり根底にある夫婦の問題はどうしようもありません。前回、妻の前では話せなかったのですが、、、

と、はじめは子どものことを相談していましたが、途中から夫婦の話になりました。
それは大切なことです。
妻の前では言えないけど、と前置きしてE夫さんの本当の気持ちが出てきます。
E夫さんは父親として真剣に子どものことや家族のことを考え、悩んでいます。今まで仕事が忙しくて、十分に家族に関われなかったことも反省しています。
しかしE夫さんの本音を妻に直接は伝えられないでしょう。A子さんが考える子育ての方針と大きく違います。E夫さんの気持ちを受け止めれば、A子さんの気持ちを否定することになってしまいます。A子さんにとって、E夫さんの気持ちをそのまま受け止めることは至難の業です。怒るか、無視するしかないでしょう。
しかし私は第三者として十分にE夫さんの気持ちを受け止めることができます。

A子さんも別の機会にひとりでやってきました。
子どものことや家族のことをたくさん話してくれました。しかし初回に両親と相談にやってきたときの話と全然ちがいます。夫の前では話せなかったことをたくさん話してくれました。それがA子さんの本当の気持ちだったのです。

確かに、
妻から見れば夫は全然家族のことを顧みず避けている、
夫から見れば妻は子供を甘やかしてばかり、
と見えるでしょう。
ふたりの話はぜんぜん噛み合いません。

しかし、一歩退いて眺めれば全体像が見えてきます。
ひとつの家族の話を、ふたつの異なる角度から見ています。
見え方はかなり違うけど、その根本は同じです。
A子さんとE夫さんの根本に共通しているのは、家族の大切さです。自分にとって夫婦や子どもはかけがえのない大切な存在です。自分の存在の拠りどころです。
近づきたい。大切にしたい。
その気持ちはとても自然な愛情なのですが、実際の生活になると、お互いの愛情が見えなくなってしまいます。とても、もったいない話です。

何度か別々に相談してきた後に、両親ふたりで再び相談に行くことにしました。

それはとても大変な決心だったと思います。よくそこまで漕ぎつけました。
今回に比べれば、一番初めの相談は楽だったのです。なぜなら、子どもの問題について相談するからです。子どものためにならば、夫婦が協力できます。
しかし、今回は夫婦の問題にも触れなければならないということは内心よくわかっています。そこに触れることはとても勇気が必要です。
今回は、その勇気をもってふたりがやってきました。

ふたりで真剣に向き合い家族のことを話し合おうとすると、どうしてもうまくいきません。
どうしても怒りの気持ちが出てきてケンカになってしまいます。
それは避けたい。
そのためには、そこに触れないようにするしかありません。
そうすると、相手にとっては無視された、拒否されたと受け取られてしまいます。
大切な相手から無視・拒否されるほど辛いことはありません。
結局、ケンカになるか、無視されるかになってしまい、どちらにせよ傷ついてしまいます。

セラピストはふたりの間に行司として入り、安全にふたりの本当の気持ちを伝え合えるように支援します。

人は誰でも弱さを持っています。それは、
自分の劣っているところ、汚いところ、恥ずかしいところ、自分でもイヤだなと思っているところ、
悲しいところ、怖ろしいところ、二度と経験したくないところ、、、
などなどです。
自分のその部分には鉄条網を張り巡らし、立ち入り禁止区域に指定します。
自分でも触れません。考えたり思い出してはいけません。その思いは心の中で切り捨て、その存在を無視してきました。
まして人が近づいては絶対にいけません。
なぜなら、そこに立ち入るとせっかく築いてきた自分という枠組みが崩れ去り、自分はダメな存在、悪い存在、劣っている存在としておとしめられてしまいます。自分の存在価値がなくなってしまいます。

だれでもそのような立ち入り禁止区域を持っています。
何もない平穏な時は全然それで構わないのですが、非常事態がやってきて、家族が深く向き合って協力しなければならない時に困ってしまいます。

人の本質は弱さです。
弱くて、ダメで、どうしようもなくても、全然かまいません。それが本来の姿なのですから。
だからこそ、一生懸命良いものになろうと努力します。そうやって体力や学力や地位やお金や、さまざまな鎧を身につけます。
鎧を身にまとうことに慣れると、いつのまにかそれが本来の自分であると錯覚して、自分は強いんだと思い込むようになります。強いから有能だから周りの人が受け入れてくれているのだと勘違いします。
本来の自分はとても弱い存在です。そのことを自分が認め、相手も認めることで、本当の自分と相手が結びつくことができます。

でもこれは大きな危険を伴います。今まで経験してきたことと正反対かもしれません。
我々は努力して良い部分を見せて、自分が強いものとして扱われることによって相手に受け入れられてきました。入学試験も、就職も、仕事も、商売も、結婚も、すべて有能さや美しさを武器にして自分を支えてきました。その流れからすると、自分の弱さを見せてしまったら相手から見捨てられるかもしれません。自分の価値がなくなってしまうかもしれません。大きな不安を抱きます。それを乗り越えるのはかなり大変な作業です。

でも、よく考えてみれば自分の弱さを認めることは強いことですよね。深い人間性に立脚して、自分自身に向き合ってやっと達成できることです。

私はそんなことできません!
いや、できますよ。できないと思い込んでいるだけです。
だれでもそこまで降りることはできるのですが、怖いから、壊れるのが不安だから躊躇するだけです。だれでも出来るはずなんです。

強さをとおしてではなく、弱さをとおして相手と向き合うことができるようになると、もはや怒りの武器が不要になります。お互いの弱さを認め合い、信頼して目の前の問題に取り組むことができます。

A子さんとE夫さんは、なにもそんなことを深く考えていたわけではありません。
何度も話し合い、言い争いになったり、もうダメだ諦めるしかないと思ったことも何度もありました。でも、なんとか話し合いを続けていくうちに、相手のことが少しずつ理解できるようになりました。
以前のように無視されたり怒りが爆発することも少なくなり、子どもの問題について率直に意見を交換できるようになりました。

そのことが影響したのかどうかはよくわかりませんが、子どもの状態が少しずつ良くなってきました。
まだまだ心配はあるのですが、今のところどうにかやれているようです。前より少し成長して大人に成長したような気がします。
はっきり「もう大丈夫」とは言い切れないのですが、なんとかやってゆけそうな見通しが見えてきました。

とても良かったです。

2013年11月15日金曜日

大切な場所

Facebookで小学生時代の友達から40年ぶりに連絡が来た!
名前を見ても思い出せない。ホコリをかぶった卒業アルバムをひっくり返して、ああ、この子ね。思い出した。

彼女曰く:
田村くんは優秀だったからよく覚えています。

えっ、そうなの?
私って小学校で優秀とまわりから見られていたの?
知らなかった。
中学では成績の学年順位が出たけど、小学校ではそんなのもなかったからわからないじゃない!?
あえて言えば学芸会で主役を演じたり、学級委員をやったり、通信簿に「5」が多かったことは覚えているけど、それが「優秀」と呼ぶべきものかわからなかった。
一番初めに気づいたのは、中1の1学期の中間試験だった。
「成績が学年で3番です」
って、そういうことなの?塾にも行ったことなかったからよくわからない。
中学以降に社会の序列が見えてくる。

でも、嬉しい。
そうか。私が知らなくても、私のことを認めてくれている人がいたんだ!
それはとても気持ちが良く、嬉しいことだ。

誰でも人からの承認を求める。

あなたのことを知っているよ。
あなたのことを見ているよ。

その欲求は際限がない。
Twitterで多くのfollowersがいると安心する。
Facebookで多くの「いいね!」をもらうと嬉しい。
ネットの中のはかない関係の中でも承認を求めようとする。
では現実の中ではどうなんだろう、はかなくないのだろうか?

既に、私はたくさんの人から認められてきた、、、と思う。
仕事をその手段に使っている。
授業で多くの学生たちと接し、
クライエントと深く接する。
講演会で多くの人に話を聞いてもらう。
人から感謝される。
テレビにも出て、疎遠だった親戚や友人から「見たよ!」と連絡をもらう。

その快感をもっと味わいたくなる。
精神科医としてもっと有名になりたい。
本を書いてたくさんの人に読んでもらって、自分のことを知ってもらいたい。
有能な精神科医になって、多くの人に認められたい。
そういう欲求はまだ残っている。
より多くの人に認められれば、よりたくさん自分を肯定できる、、、と思い込んでいる。

あなたは大切なんだ。居て欲しいんだ。
と言ってくれる人がいて、自分がこの世に存在する根拠が生まれる。

その相手を誰に求めるかが重要だ。
量でいくか、質でいくか。
質が大切に決まっているのに。

一番身近で大切な人から
あなたは大切なんだ。居て欲しいんだ。
と言ってもらえ、その人に、
あなたは大切なんだ。居て欲しいんだ。
と言えることがこの世に生きる根拠につながる。

しかし、それがあまりにも日常化して気づかなくなったり、逆にそれが得られなくなったとき、フラフラと外の世界に承認を求めようとする。
Facebookも、本を書いて名を成すのも、仕事に生きがいを求めるのも、それはそれで良いだろう。
でも、一番大切なことは、結局、家族に戻ってくることなのだ。そのことを忘れないようにしたい。

しかし実際には、
戻りたくても戻れなくなったり、
気がついたら戻り方を忘れてしまったり、
家族の大切さを忘れてしまった人たちに、
臨床ではよく出会います。

そして父になる

カンヌ映画祭の話題作「そして父になる」を観た。
ネタバレしないように気をつけながら紹介すると、、、

病院で子どもを取り違えられた二組の夫婦の葛藤の物語た。
それなら、「父になる」と「母になる」の両方があってもよさそうだけど、そういう意味ではない。
4人の親のうち3人は既に「親」になっている。
ひとりだけ、「父親」になっていなかった男性が、家族の葛藤を通して「親」になっていく姿を描いている。

そして、どうやって父になったのかを要因分析すると、

1)家族と向き合わねばならない試練が与えられた。
 もしこの事件がなければ、彼は敢えて「父親」にならなくても家族はどうにかやってこれただろう。葛藤があったからこそ真剣に向き合う必然性が生まれた。
危機crisis=険danger+会chance
家族の危機は、家族が崩壊する危険性を含むとともに、家族の力を発揮するよい機会(チャンス)でもある。どうしたらよいかわからない、しかしどうにかしなければならないというギリギリの状況の中で彼は苦悩し、試行錯誤して家族と向き合った。

2)価値観・人生観の転換
 オトコとして、社会人としての自分を作りあげ、成功を支えるために彼自身が育んできた価値観を転換せざるを得なくなった。積み上げてきた自分をいったん崩すことは大きな勇気が必要だ。初めて経験する大きな挫折体験が、彼を人間として成長させた。

3)夫婦の対話をやめなかった。
 夫婦を長くやっているとだんだんオリが溜まってくる。挫折がなければオリが溜まっていてもなんとかなる。しかし、試練を乗り越えるためには夫婦が協力しなければならない。高いレベルの協力体制を組むためには、溜まったオリを整理しなくてはならなくなった。お互いに我慢していた不満が一気に高まり爆発する。今までは敢えて語らなかった本音をお互いに思い切って伝え合う。それはお互いにとってかなりきつい。そこを何とか踏みとどまり葛藤を乗り越えることができると、夫婦の新たな問題解決能力が生まれる。

4)自分の親を訪ねる。
 どの親もマニュアルを頼りに子育ては出来ない。親から与えられた体験が身体に浸みつき、無意識のうちに自動的に子どもに対応している。子どもにどう向き合ったらよいのかわからなくなった時は、あえて自分の過去を再訪することで自分の癖が見えてくる。

5)子どもから愛をもらった。
 彼は親としてどう関わったらよいのか、向き合ったらよいのか自信が持てなかった。ふとしたきっかけにより子どもからそれで良いのだよと承認を受け、父親としての自信を獲得する。夫婦と同じように、親子でも相互に愛を伝え合う。親が子どもに愛を伝え、子どもが親に愛を伝える。その相互作用の中で親子関係が再構築された。

日本映画にありがちなB級作品ではなく、危機を乗り越えようとする家族の心理がうまく描かれた見ごたえのある作品だ。

2013年11月11日月曜日

しまなみ海道サイクリングⅡ

昨年8月のしまなみ海道サイクリングがあまりにも良かったので、今回2回目のサイクリングに出かけた。
11月2日
仕事を終え、新幹線と在来線で尾道まで。福本渡船で向島に渡り、河野温泉泊。

11月3日
6:02 向島出発
https://maps.google.com/maps?q=34.402287+133.196176&z=14

7:04
因島側からの生口橋。向島を出発して初めてのコンビニで腹ごしらえ。
https://maps.google.com/maps?q=34.319624+133.145270&z=14



9:38 大島。来島海峡大橋手前の道の駅「いきいき館」
サイクリングクーポンを持っていると、名物ゆずソフトが50円引きになる。
これまで天気はどうにかもっていたが、あいにく小雨が降り出した。

10:40 JR今治駅に到着。尾道から4時間40分で走破。
BD-1を折りたたんで電車で松山へ。
午後は松山で仕事。(相談員研修)

11月4日
朝いちで道後温泉でひと風呂浴びる。
写っているのは知らない人です(笑)。
午前中は仕事。
午後1時ころ松山を発ち、海沿いの国道196号(今治街道)を走り今治へ。途中休憩をはさんで約4時間かかった。海沿いの道で気持ちが良いのだけど、向かい風が強く、車の交通量も結構多いので、しまなみ海道ほど快適ではない。
宿泊した今治国際ホテルでは部屋に自転車を持ち込み可。海外(ヨーロッパ)では可のホテルもあったが、国内のホテルではソトの駐輪場か良くてもフロント預かりになる。しかも、スポーツ自転車用のスタンドまで貸してくれて大感激。さすがしまなみ海道のおひざ元だ。部屋はゆったり、温泉もあり、かなりお薦めのホテルです。

夜は近くの居酒屋へ。この刺身盛り合わせが1人前で500円だからびっくり!大満足でした。


11月5日
9:15 今治国際ホテル発。

昨夜のマッサージで身体は軽い。


10:05  大島外周道路より来島海峡大橋。
2回目なので、大島と生口島は指定された道ではなくバリエーションルートを試した。

吉海を経由する大島西岸からの来島大橋は美し過ぎる!
道はずっと海沿いで気持ちが良いのだが、後半の田浦峠の登りが今回で一番の難所だった。

大島側から見た伯方島と伯方・大島大橋。ここからの海と島と橋の風景がしまなみ海道中で一番好きだ。
瀬戸内海に波はほとんどない。その代わり早い潮流で渦巻く様子が身近に見える。

12:05 生口島の南端。
指定されたルートは西側の瀬戸田を経由するが、東岸を通る。大島のような難所もなく、瀬戸田経由よりもこっちの方が良い道だ。

14:04 向島。尾道への渡船乗り場に到着。
帰路は約5時間かかった。

この福本渡船に乗り(自転車持ち込みで70円。去年より値下がりした?)、尾道でラーメンを食べて、帰路につく。夜は浜松で途中下車して2時間の講演の仕事を済ませ、自宅に着いたのは夜の11時過ぎ。吾ながら、よく体力がもった旅でした。
いやあ、楽しかった!

2013年11月8日金曜日

親は子どもに葛藤を乗り越える力を与える

親ができることは何ですか?

葛藤に耐える力を身に着けてあげることです。
人はふつう葛藤を避けます。

思春期に自立することは危険がいっぱいです。
仲間からいじめられるかもしれない。
裏切られるかもしれない。
無視されるかもしれない。ハブられるかもしれない。
うまくやってゆけないかもしれない。
KYと言われてしまうかもしれない。引かれてしまうかもしれない。

思春期の子どもは、前に進むことに不安を抱き、躊躇して、NOと言います。
そこで、子どものNoに、親がYesと言ってあげられるか。
いかに親がYESを伝えることができるかが、親の力を発揮する場面です。

そのためには、親子の葛藤を乗り越えなければなりません。

Aさん曰く:
父親は子どもとうまく接することができないんです。
以前、子どもに強く言ったら、反抗して大騒ぎになってしまいました。
父親も仕事で疲れています。もう子どもに関わる元気がありません。

Bさん曰く:
父親は家であまり意見を言いません。
意見があるかどうかもわかりません。
それに、父親が何か言ってケンカになったら困りますから。

Eさん曰く:
子どもが傷つかないか、いつも親がピリピリしています。
親は差しさわりのない話題しか触れられず、楽しい話題がありません。

人と向き合い、傷つくことを恐れるのは子どもばかりではありません。
親も恐れます。
子どもとの口論は怖いものです。
良くないことが起きるのではないか。
この子はあまり強くない子だから、つぶれてしまうのでは、やる気をなくしてしまうのでは、やけになってしまうのでは、、、と心配します。
相手に気を遣い、遠慮します。
自己主張して相手とぶつかることを回避します。

Cさん曰く:
口論は良くないです。お互いに傷つくだけで、何も生まれません。

いいえそれは違います。
人とのぶつかり合いを避けようとする習慣がひきこもりを生みます。

親は人とぶつかり対立して傷つけあっても大丈夫なんだという体験を子どもに伝えてください。
家族でも、友だちでも、親しく付き合うためには葛藤を経験しなければなりません。
葛藤を通り越したその先に親密性があります。
葛藤を避けていたら、本当の関係性(親密性)を得ることはできません。そこまて体験しないと、関係を深められません。

ひきこもり、家庭外で人とぶつかる機会が得られない場合は、家庭の中で感情のぶつかり合いを体験させます。
激しくぶつかってもOKなんだ、構わないんだ。ぶつかった後に修復できるんだという成功体験です。

特に父親とぶつかる体験が大切です。
多くの家庭では、母親がウチの番人、父親がソトの世界の番人です。
父親との対立を経験し、傷つき、回復する成功体験を得ると、ぐっとソトの世界に出やすくなります。
父親とぶつかっても大丈夫なんだという自信です。

Dさん曰く:
でも先生、子どもとぶつかると、ひきこもってしまい、全く口をきかず、関係が途絶えてしまいます。
今ようやく落ち着いて、日常会話ができるようになってきたので、この雰囲気を壊したくありません。

その不安はよくわかります。
人は親密な他者から拒絶される痛みに耐えられません。
子ども、は親から拒絶されることを恐れます。
親は、子どもから拒絶されることを恐れます。

それではダメです。
恐れていてはダメです。
拒絶されようとも、子どもが大声を出そうとも、親は子どもに関わり続けなければなりません。
それができるのは親だけです。

親の力を子どもに与えてください。

しかし、それは難しいものです。
まず、親がご自身のこれまでの体験を振り返ってください。
相手とぶつかり傷つき、乗り越えられなかった失敗体験(トラウマ)が残っていると、そんなこと怖くてできません。
相手とぶつかり傷つき、乗り越えて親密性を獲得した成功体験があると、難なく自然に実行できます。

Fさん曰く:
息子は自分がひきこもりだと思っていません。
本人の性格を考えると、親が相談に来ていることを話せる状況ではありません。

それではダメです。
まず、親はそう考える前提を崩しましょう。

2013年10月29日火曜日

女性の児童虐待

「子どもの虐待」ってドキっとする言葉です。
親は子どもを無条件に愛するものです。決して傷つけることはないという共通認識がって、我々が最も大切にする家族の幸せがなりたっています。虐待とはそれを覆す、あってはならない恐ろしいことです。
虐待は今に始まったことではなく、昔からあります。シンデレラも白雪姫も子どもの虐待を扱ったおとぎ話は洋の東西を問わずたくさんあります。でも、それは継子に対する虐待で、普通の家庭には起こらず、特殊な事情を持った家庭に起きるまれな出来事と思われていました。

でも実際はもっと日常ありふれた出来事なのです。全国の児童相談所で扱う件数は、20年前は年間千件程度でしたが、昨年は6万件を超えています。この20年間に50倍以上に増えています。日本の親たちはこの20年間に急に狂暴になったとも考えにくいことです。実際の虐待件数がどれほど増加したかということはわかりません。むしろ社会が児童虐待という現象に敏感になって、今まで家庭という密室に隠されていた問題が見えるようになってきたと考えるのが妥当でしょう。

社会が虐待に敏感になると、どうして件数が増えるのでしょうか。
たとえば、あなたの近所の家から大人の怒鳴り声に続いてドタンバタンとものすごい物音と子どもの激しい泣き声が聞こえたとしましょう。
虐待がメディアであまり取り上げられず、一般市民が虐待についての知識がない時代には、「ああ、うるさい。近所迷惑だな。ヘンな(つまり理解不能な)家のことだから触らぬ神にたたりなし。がまんしてほっておきましょう。」という具合に振る舞うでしょう。
しかし、児童虐待の知識が人々の間に浸透すると、「あれって虐待だよね。なんとかしなくちゃ子どもがかわいそう。事件になるかもしれない。どこに通報したらいいの?」と思います。その結果がここ20年間の通報件数の急増です。

また、虐待をした人は実の母親が6割を占めます。男性の暴力は激しく、子どもを死亡させたニュースが話題になりますが、実際に実の父親が虐待したケースは約2割で、母親に比べればそれほど多くありません。また継父母による虐待件数は全体の1割にも満たず、大部分は実父母によるものです。

もっとも、実の親ではない継父母の家族の絶対数が少ないのでそう見えるだけで、実父母よりは継父母の方が虐待が起こりやすいということは間違いないようです。ただ、今回は継父母の問題ではなく、実父母、特に母親による虐待について焦点を合わせたいと思います。

(巨人の星)
私は子どもの頃、テレビアニメの「巨人の星」が大好きで欠かさず見ていました。スポーツ根性物語のはしりでとても流行っていました。当時は美談として語られ、私もテレビを見ながら自分も目標を目指して頑張ろうと感動していました。しかし、今から振り返れば父親が自分の果たせなかった巨人軍の夢を子どもに託し、「大リーグ養成ギブス」を無理強いさせた虐待の物語と捉えることもできます。こう考えれば親が子どもを虐待するというのはちょっと社会規範が変化すれば見えてくる、昔からあったありふれた出来事なのです。

このように虐待が身近な出来事だとすると、普通の生活を送っているつもりの我々も見過ごせなくなります。
普通なのに、なぜそんなひどいことが起きるのでしょうか?
なぜ、女性が虐待する頻度が高いのでしょうか?
もしかしたら私のまわりでも、、、と心配になってきます。
もう少し詳しくみてゆきましょう。

(虐待の種類)
虐待の種類は身体的、心理的、性的、遺棄(ネグレクト)の4つあるというのが定番でした。

身体的な虐待は実際に傷や骨折などで、「階段から落ちました」と担ぎ込まれた子どもを医者が診察して、あるいは保育園や学校の先生が傷やあざを発見します。あざや傷という物的証拠があるので4種類の中では比較的見つけやすいタイプです。

遺棄(ネグレクト)とは、食事や衣服、衛生など必要なケアを子どもに与えずほったらかしにする虐待です。これも保育園や学校の先生が着替えず汚れた衣服や、がつがつ給食を食べる姿から見出されます。このふたつはいわば伝統的な虐待であり、比較的まわりの人からも気づかれやすい虐待です。

性的虐待と心理的虐待は外から見えにくいのでまわりから気づかれず、長い間繰り返され、子どもの心に深い傷を与えます。病院の救急外来に来ることはなく、妊娠などの性的被害を除けば身体は大丈夫なのですが長期的に深刻なダメージを与え大人になってからも深刻な影響を与えます。

性的虐待は妊娠まで至らないかぎり、最も発見されにくい虐待です。加害者は絶対だれにも言ってはいけないと口を封じ、本人も「恥ずかしいこと」としてまわりに救いを求めません。あるいは、何が起きているかわからないし、お父さんのやることは気持ち悪くてイヤだけど従わねばならないと罪悪感なしで性行為を受け入れてしまっている場合もあります。性(セクシュアリティ)は人の根幹をなすもっとも尊厳される部分です。思春期以降、性に目覚めてから子供の頃の出来事を振り返り、それが如何に自分の内面を傷つけられたかということをやっと理解できるようになります。大人として愛するパートナーと親密になろうとすると、昔の体験がフラッシュバックして、ようやっと身体と心が深く傷つけられたその暴力の大きさに気づき、深く悩みます。自分の性的なアイデンティティを獲得できません。ちゃんとした女性としての(あるいは男性としての)自信を獲得できなくなります。
日本では性的虐待の件数は他の種類の虐待に比べて少ないのですが、アメリカなどでは件数が多くなっています。もしかしたら、日本でもまだまだ隠されているだけで、本当はもっとたくさんの性的虐待があるのかもしれませんが、まだ、その実態は家族という厚いベールに隠されたままです。

心理的虐待は子どもの心を痛めつける言葉の暴力です。
これも形に残らず物的証拠がないので虐待であることを立証するのが困難です。親は子どもを無傷で育てるわけにはいきません。子どもは傷つきながら成長するので、ある程度は親は子どもを傷つけなければなりません。
「あなたはダメね」
くらいの言葉はどの親でも言います。
心理的虐待とはもっとひどい残酷な言葉です。たとえば、「あなたなんて産みたくなかった」、「あなたはレイプされて産まれた子どもなのよ」、「あなたは祝福されずに産まれてきた子なのよ。だれもあなたの誕生を喜んでいないわ」、「死んでしまえなど」といった具合です。このような言葉を繰り返し長い間投げつければ、子どもの自尊心をつぶしてしまいます。

(マイルドな虐待)
この4種類に加え、私が問題にしたいのは親のマイナスの気持ちを子どもに投げかけてしまう関わり方です。これは正確に言えば虐待ではありません。親も子どもを傷つけるつもりは全くなく、むしろ逆に一生懸命に子どもを育てようとしています。しかし、結果的には虐待と同じダメージを子どもに与えてしまいます。
これは心理的虐待の隠された形と言えます。子どもに言葉で何かを伝えるわけではありません。親の自信のなさ、低い自尊心を普段の関わりの中で伝えてしまいます。
誰にとっても子育てはとても不安に満ちた行為です。うまくいく部分と、うまくいかない部分が半々くらいです。「ちゃんと勉強ついていってる?」、「友だちとうまくやれているの?いじめられていない?」、「先生に叱られていない?」、、、などなど心配しはじめると際限がなくなります。親自身が生き辛さや毎日の生活に不安を感じていると、子どもを見つめる眼差しも不安でいっぱいになります。親の私が頼りなくてまわりとも上手くいかないのだから、私の子どももきっとうまくいかないわ。どうにかしないと手遅れになる、、、という自動思考に走ってしまいます。そうならないために親がどうにかしなければなりません。焦る気持ちからああしなさい、こうしなさい、それをしてはダメ、これしちゃダメ、、、自分ではそういうつもりではなくても結果的に過干渉・過保護になり、親自身の不安感を子どもに植え付けてしまいます。その結果、子どもは安心感と安定感を得ることができず、ふわふわしたまま成長して何となく自信を持てない生きにくい人生を送ることになります。でも、親はそんなことまで気づかず必死に子どもに関わります。子ども側はこのようなマイルドな虐待に気づくのは大人になって、自分の子どもを育てるようになってからです。

(虐待の引き金は何ですか?)
虐待の背景としてよく言われることは、
親側の要因として経済的な困難、身体的・精神的な病気、ひとり親、若年の親など。
子ども側の要因としては未熟児、障害を持っている時など。
と言われています。でも貧しくても、若くても、ひとり親でもしっかり良い子育てをしている親もたくさんいます。では何が違うのでしょうか。
ひと言でいえば、心のコップがいっぱいで、余裕がない時です。
人は誰でも心のコップにストレスや疲れを溜めこんでいます。まったく水がないことはなく、半分程度溜め込んでいるのが普通です。それでもある程度余裕があれば、新しいストレスや疲れを受け取ることができます。しかし、コップの中に水がいっぱい入っていると、それ以上水を入れようとしても溢れてしまって受け取ることができません。

(ふたりの子ども)
子どもは二つの側面を持ちます。
子どもはとても可愛いいものです。子どもがいることが喜びや生き甲斐につながります。
子どもは憎ったらしくイライラしてストレスになります。
この両面を兼ね備えるのが子どもです。

先日、近くの駅で二組の親子連れを見かけました。
ホームには4歳くらいの女の子が大声で泣き叫び、母親に抱っこをせがんでまとわりついていました。母親はちゃんと歩かせようとしているのか取り合わず知らん顔で歩き、子どもは泣きながら必死で追いかけています。まわりの人は大声にびっくりして親子を眺めていました。

もうひとり、3歳くらいの男の子が階段の手すりにつかまって子どもにとってはとても大きな階段を一歩ずつゆっくり登っていいました。お母さんはよいしょと先にベビーカーを運んで上で子どもを見守っています。一生懸命歩いている姿がとても可愛いかったです。

親の気持ちに余裕があると、子どもの憎ったらしい部分をすっと収めて、可愛い部分に向き合うことができます。ホームの女の子は普通だったら親もまわりに迷惑をかけてイライラしそうだけど、親に余裕があれば周りの視線を気にせず、子どもの駄々を暖かく受け入れ、甘えずに自分で歩きましょうとしつけることもできます。
親の気持ちに余裕がないと、いつもイライラしていて、可愛い部分を受け止めることができず、憎ったらしい部分にイライラが高じて、叱ったり怒鳴ったり叩いたりしてしまいます。階段の男の子だって、まわりの通行人の目を気にして、ゆっくりペースを待つことができず「早くしなさい!」とイライラしてしまうでしょう。

(どういう時に余裕がなくなるのか。)
それは貧しさ、ひとり親、病気、10代の妊娠などの難しい事情だけではありません。外から見ればごく普通の家族に見えるけど、その奥に難しい事情を抱えていることもあります。たとえば、本当は子どもをあまり望んでいなかった、外面は良いけど家では育児を妻に任せっきりの夫、嫁姑関係など家族の中に解決できない葛藤がある場合、そして普通にはやれているのだけど実は子育てに自信を持てない場合などです。

(虐待恐怖症)
世の中には様々な災いに満ちています。もしかしたら自分にも降りかかるのではと不安と向き合わねばなりません。
たとえばガンが注目されたらいわゆる「癌ノイローゼ」つまり身体に不調があると、もしかしたら自分はガンかもしれない、お医者さんも家族も隠しているに違いないと思い込んでしまいます。エイズ恐怖症というのも、自分はエイズにかかったかもしれないと心配になってしまう状態です。
同様に、もしかしたら私、子どもを虐待しているかもしれない、子どもの人生を台無しにしているかもしれないと心配になる親が増えています。いわば「虐待恐怖症」です。

「ついイライラして気が付いたら子どもに手を上げていました。これは虐待なのでしょうか?私は子どもを虐待しているダメな親なのかもしれない。助けてください。私、このままでは子どもをダメにして私もダメになってしまいます。」
虐待予防のヘルプラインにはこのような相談がよく舞い込んできます。よく話を伺えば、虐待というほどではなくても子育てにすっかり自信をなくしています。
このような相談は女性で、男性からはほとんどありません。

(親子関係の自信のなさ)
なぜ、子育てに自信をなくしてしまうのでしょうか。
自分の親との関係に自信がないと、自分の子どもとの関係にも自信を持てません。
自分と親との関係の中で作られるマイナスのイメージが、自分と子どもとの関係の中で再現されてしまいます。
自分の不安な感情を子どもに投影します。すると親の不安が乗り移ってしまい自信を持てません。
親を見ていると、人間関係の自信を持てません。両親は仲良く折り合うことが出来ずけんかばかりしています。愛し合うはずの夫婦ってこんなものなのと思ってしまいます。
親から受容されなかった、承認されなかった、親に甘えられなかった、親は自分のことを愛してくれなかったという記憶が残ると、いつまでもそれに固執し、親から気持ちを離すことが出来ません。親のことを諦めているつもりでも、実は子どもの頃に得られなかった親からの承認をいつまでも得ようとします。自分がうまくいかないのは親の責任であり、親を憎みます。
親から本来受け取るプラスのメッセージ(愛情、承認)を得ることが出来ず、マイナスのメッセージ(不安、低い自尊心、自信のなさ)を受け取ります。自分は空っぽの人間だ、人とうまく付き合うなんて出来ない人間だ。自分は価値のない人間だと思い込んでしまいます。人との関係がうまくいきません。たとえば夫婦関係に自信がもてません。どの夫婦でも半分はうまくいき、残りの半分はうまくいきません。プラスのイメージがあれば、うまくいく部分に注目して何とかうまく夫婦関係をこなすことができます。逆にマイナスのイメージが先行してしまうと「ああダメだ。最悪!」と思ってしまいます。

(二重の意味で虐待の世代間伝達)
子どもの虐待は世代間で伝達されるとよく言われます。遺伝子が伝わるわけではありません。暴力・遺棄といった親子関係パターンが次の世代に受け継がれていきます。まさにこのようなマイナスのパターン(自尊心の低さ、自信のなさ)も次の世代に伝わってしまいます。

(なぜ女性に多いか)
虐待はなぜ女性に多いのでしょうか? 
まず単純に接する時間が男性より長いという点があります。ストレスのはけ口は身近な人に向きます。子どもと接する時間が長ければ子どもにあたり、その結果が虐待となる可能性も高くなります。

それに加え、男女の指向性の違いも影響します。つまり女性は関係性を指向し、男性は独立性を指向します。
女性は他者との関わりの中で生きています。親のこと、パートナーのこと、友人や職場の人たちのこと、そして自分の子どものことを常に考えています。幸せも不幸も、関係性の中で成立します。それに比べると男性は独立や自立を指向します。人が何と言おうが自分の信念を貫き目的を達成することに喜びを感じます。感性よりも理性を使って考えます。男性にストレスが加わると孤立し、孤独になります。「おたく」は人との親密な関係を拒絶し距離を置いた状態であり、社会との関わりを持たないひきこもりも男性に多いです。ストレスを抱えたまま人に関わると怒りや暴力、セクハラや逸脱性行動などになります。
女性にストレスが加わると、ひとりでは耐えきれず、人を求め、その関係性の中でストレスを処理しようとします。男性のように暴力や性を使うことは少なく、マイナスのオーラを関係性の中に織り込みます。派手に表面には出てこないので一見目立たないのですが、実は水面下でじわじわと陰険に攻め込みます。本人もそんなことをしているつもりはなく、無自覚の中で行われます。職場内でも、家族の中でも起こります。それが子どもに向けられると虐待になります。表だった虐待よりも、マイルドな虐待が多く見られます。

(では、どうしたらいいのですか?)
子育てには余裕が必要です。
そのために社会の手助けが必要です。それは保育園などの支援、経済的な支援、地域の見守り体制などです。またお父さんを職場から返してあげる制度も必要でしょう。

さらに、個別の手助けが必要です。
親自身の人生が光に満ちていたら、子どもにも光を与えることが出来ます。
親自身の人生が影に満ちていたら、子どもに影を与えてしまいます。

子どもに対してどうしよう?
夫に対してどうしよう?
と考えがちですが、結局その答えは、
自分に対してどうしよう?
ということなんです。
自分をとことん見つめてみること。
かなり自己愛的ですが、自分の悲しみや痛みをちゃんと自分で感じるところからスタートするしかないと思います。
それをお手伝いするのがカウンセラーや精神科医です。

2013年10月19日土曜日

親の力を賦活する

ひきこもりの解決に向けて、親ができることはたくさんあります。
家族の力で解決することができます。
しかし、それは決して簡単ではありません。

子どもに言いたい、言わねばならないことは理解しているんです。
でも言えません。

多くの方は「魔法の言葉」を教えてくださいと相談にやってきます。
簡単に解決する方法が見つかるかもしれないと期待します。
「魔法の言葉」はありますよ。
でも、それはソトからやってくるものではありません。処方箋にサラサラと書いてお渡しできるものでもありません。
それは自分自身の中に隠されている「魔法の言葉」を発掘する作業です。とても厄介なこと、骨の折れることです。
カウンセラーは発掘する方法をお教えしますが、掘るのはあなた自身です。とても大変ですよ!!
自分で火の粉をかぶる覚悟をしないといけません。

人を変えることは出来ない。
出来るのは自分自身が変わることだ。

と、よく言われますね。
自分がやらないといけないと覚悟することです。
人をどう動かそうかということではなく、自分がどう動くかということです。
もっと正確に言えば、人を動かすために、自分がどう動くかということなんです。

それは、自分の枠組みを変更することです。
親としての枠組みを変更すること。
人は誰でも「自分のやり方・信念」という枠組みを持っています。
枠組みとは、自分にとって何がOKで、何がNG(イヤ)なのかという境い目のことです。
誰でもイヤなことはしたくありません。
「それで良いよ」というOKの部分で自分の領地を固め、その周りに高い砦を築きます。
砦の外へは行きません。そこは何が起きるかわからない不安と、傷つくかもしれない危険で満ちています。
ふつう、砦のソトには行きません。
でも、今までの自分が変わるために、どうしても領地を広げなくてはならない機会に遭遇します。砦の外に一旦出てみて、NGの部分も自分の領地に含めていかねばなりません。そうすれば新たな自分を獲得できます。
自分から自ら進出できる部分はそれで良いんです。苦労しなくとも自然に自分の領地に含めることが出来ますから。問題は自分がNGと認識した部分です。アタマではそこも領地に取り込んでいかねばならないということは理解できても、自分ひとりの力で危険なソトの部分へ足を踏み入れることは出来ません。

では、どうすればよいのでしょうか?
しっかり信頼できる他者の力が必要です。
その人を信頼できるし、その人は自分を信頼して肯定的に見てくれているなと実感できる人です。
その人に、自分一人では恐くて踏み出せないソトへ連れて行ってもらいます。
「大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」
という強いメッセージが必要です。
だれがそれを言うのでしょう?
信頼して肯定してくれる人って誰でしょう?
一応、カウンセラーはその役を担うプロです。
求めに応じて、対価を頂いて、その役をお引き受けします。
ただし、実際にお目にかかってじっくり話し合うことが出来ればの話です。
ひきこもっているご本人とお会いできれば、カウンセラーはご本人と対峙します。
ご本人と会えず、親が「子どもをどうにかしてください」と相談にやってくれば、カウンセラーは親と対峙します。

ふつう、子どもがイヤがることをしてはいけません。そんなことしたら相手から拒絶されます。
でも、生きていくためにイヤな部分に進出する必要があると判断したら、イヤがっても、イヤな部分に連れて行きます。
「大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」

子どもがカウンセラーを拒絶しているということは、子どもにとってカウンセラーはソトの世界のイヤな部分にいます。
子どもが交流できるのが親だけなら、親がその役目を果たします。
子どもは自分を守る砦を築いています。
ソトに出たくない。
人と関わりたくない。関わったら自分が傷つくから。
とイヤがる子どもをソトに連れ出します。
「大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」

親の私がそんなことを言うのですか?
それはできません。そんなことを親が言ったら、子どもは親を拒絶します。

カウンセラーは、親として作り上げた砦のソトに連れ出します。
いえ、無理強いはしません。そんなことしたら傷つくだけです。
カウンセラーが「とても信頼できるし、自分のことを信頼して肯定的に見てくれているな」と思える人になるまで待ちます。
もしラッキーにも、クライエントにとってカウンセラーが十分に信頼に足りる人になり得たら、無理強いをします。
「傷ついても大丈夫。私が保証するからやってごらん!!」

そうやって、親自身が砦のソトに一歩踏み出して、今まで出来なかったことが出来るようになったら、親が今まで子どもに伝えられなかったことを、伝えられるようになります。
そうすれば、子どもも今まで出来なかったソトの世界に一歩踏み出し、安全の砦の境界線を広げることができるようになります。

手が込んで面倒なのですが、本人とお会いできない場合には、このようにして親の力を介してひきこもりの解決に向かっていきます。

承認を求めて、、、


あるお父さんの言葉から。

親は息子を受容できなかった。
というより、息子は親から受容されたという感覚を得られなかった。
それが息子の肥大したままのエゴに繋がっている。
親に追いつき追い越そうとして進学校に入ったまでは良かったが、高校ではまわりに自分よりできるやつがたくさんいて挫折した。自己万能感だけが光り、肥大したエゴを取り崩すことができなかった。

そう。息子さんが今、こうなってしまったのは親の責任だと親を責め続け、自分は何も悪くないと主張し、ひきこもってまわりとの交流を遮断することで、自分が傷つくことを極端に回避し、砂上の楼閣のような脆弱なエゴが崩れないように維持しているんですね。

父親も母親も子どもの頃いろいろあって、今までずっと自分の原家族を生きてきました。息子のおかげで、たくさんの心理学の本を読みカウンセリングを受けて、そのことに気づかされました。だから息子に感謝しています。

このお父さんは自分のこと、家族のことをとてもよく分かっています。
子どもの生育過程と、自分自身の成育過程が相似形であることを。

親から受容されなかったのです。
人は、自分が肯定されないと生きてゆくことはできません。
自分は絶対的に肯定されているのだ、自分が生きているのは良いことなんだ、自分は良い部分・悪い部分いろいろあるけど、根本的には生きているに値する良い存在なんだという基本的安定感です。
小さい頃もらいそこねた承認、自分を良いものであるという証明を得るためにとてもとても努力してきました。その結果、立派な鎧を獲得し、社会的に成功しました。
しかし、残念ながら根本の部分はとても脆弱のままです。
傷つけられることに対する耐性がとても低く、自分が崩れ去ることに怯え、ちょっとでも傷つけられると「怒り」という武器で反撃します。
残念ながらそれが一番親しい家族に向けられてきました。

子どもはまだまだ未熟ですから、良い部分もダメな部分もたくさんあります。ダメな部分があっても構わないんだよ、基本的には良い子だから、、、と子どものダメな部分をそのまま受け取ることができません。なにしろ、自分自身が承認された経験が見当たらないので、どうやって受け取ったらよいのかイメージがわきません。
子どものダメな部分をどうにかしないとダメになると危機感を抱きます。
どうにか親の力でカバーしようとやっきになって先回りして手を打とうとするか。
あるいは、逆に子どものダメな部分は親に対する侮辱なんだと受け取り、反撃してしまいます。
結局、子どもは「ダメな部分があっても良いんだよ」という安心感を得ることができません。

基本的安心感を持たない人は、他者を傷つけることができません。ちょっとでも傷つけられたらどれほどショックで立ち直れなくなることをよく知っているからです。しかし、自分を守るためにはどうしても相手を傷つけてしまい、後で後悔します。

夫婦関係も難しいです。
夫婦はお互いがフィットして仲良い時と、お互いがフィットしなくてケンカする時の両方が必ずあります。基本的安心感がしっかり根付いていれば、フィットしない時もなんとか耐えることができます。基本的安心感が足りないと、小さなマイナスのメッセージにも耐えられません。とても傷つき相手から離れるか、相手を攻撃してしまいます。もともとは仲良い関係であっても、negative communicationの悪循環の結果、仲が悪い面が全面に出てきてしまいます。
どんな夫婦でも、良い面と悪い面の両方を持っています。
それでもイイかな、、、と思えば、良い夫婦のストーリーができます。
それではダメだ、、、と思えば、ダメな夫婦のストーリーができます。

多少は傷つけられても大丈夫という芯がしっかり存在していれば、完璧でないといけないという自己万能感を取り崩し、70%くらいの自分でもまあ良いかなと自分自身にOKサインを出すことができます。そうすれば多種の人々と交わり多少自分の思いどおりにいかなくても、いじめっぽいイヤなメッセージを受け取ってもなんとか持ちこたえ、他者と折り合うことができ、だんだんと社会性を獲得していくことができます。矛盾に満ちた社会の中にどうにか自分の立ち位置を見出すことができます。

このお父さんの偉いところは、しっかり自分自身に向き合っているところです。
きっかけは他者(子ども)のことで相談にやってきました。
親として何ができるのかということを相談するために。
親に出来ることはたくさんあります。たくさん見出すことが出来ます。
でも、実際にはそう簡単ではありません。
子どもにうまく関わるためには、自分自身に向き合わねばなりません。
父親として、夫として、息子としての自分に。
他者(子どもとかパートナーとか)に問題があります。どうにかしてください、、、という視点はまだ楽なのです。
自分自身に問題があります。自分を掘り下げないといけません、、、という視点はとても難しいものです。
このお父さんは、しっかりそこをおさえています。

2013年9月27日金曜日

健常者の論理

面接室での会話です。

A)
私の心の中には、いろいろな恐怖があります。
  • 将来への恐怖。このまま収入を得られないと、親がいなくなった後どうするんだろう。今の生活はできなくなる、生活保護を受けることになるんだろうか。精神的に耐えられるとは思えない。野垂れ死ぬしかなくなるのかなあ、、、という不安。
  • 自分の評価への恐怖。まわりの人たちからどう見られているのか、、、という不安。
  • 就職活動の恐怖。履歴書をどう書くのか、面接はどうするか、、、前に失敗したから、また失敗する不安。
こういう恐怖を乗り越えたいんです。。

田村)
A君は自分の現実とちゃんと向き合っているよ。とても偉いと思う。
つまり、こういうことかな。
自尊心(自分のプライド)が傷つくんだよね。
最終的には自分の存在、自分の命にかかわる恐怖かもしれない。
傷つけられると、自分という存在が危うくなる。
自分らしさがなくなる、つまり自分がなくなってしまうという存在消滅の恐怖なのかもしれないね。

母親)
親の私が悪いんです。
私が「こんなことでどうするの?甘えていてはダメ。これからどうするの?」
と言って、Aを追いつめてしまったんです。子どもを傷つけてしまったんです。
だから、その後に反省して子どもに謝ったんです。

田村)
親は傷つけて良いんですよ。
傷つくことで、人は成長します。
だれでも人は潜在的に回復力を持っています。
人は生きているうえで必ず傷つきます。それを何とか乗り越えることで自信を獲得して、ひとまわり大きくなります。それが心の成長なんです。

だから、親がそうやって傷つけたことは良かったんですよ。それでもA君はちゃんと生きているでしょ。親が傷つけたからA君が立ち直れないのではないのですよ。優しく、安全に傷つけることで、立ち直るチャンスをつかめるんです。
だから、親は悪くはない。そのことをしっかり考えてください。
あえて親が悪かったとすれば、傷つけたことを謝ってしまったことかもしれません。
そりゃあ、A君にとって辛かったでしょう。そのことはよく理解してあげてください。
でも、親が傷つけたことを自分が悪かったと否定してはいけません。

A)
先生の言ってることはわかるけど、それは健常者の論理です。
負荷に対する人のレスポンスはみな違うと思います。
負荷がかかり、頑張る人もいるでしょう。
でも、同じ負荷で電車に飛び込んでしまう人もいます。

田村)
そう、その通りですね。A君は鋭いよ。
で、A君自身ははどっちなの?
少なくとも、今までは後者でしたよね。
傷つき、自信をなくして、動けなくなってしまったのだから今、こうなっているんだよね。
でも、今は前者の頑張れる方に変わったんじゃない?
こうやって、カウンセリングもすごく頑張っているじゃない!
自分の恐怖心をこうやって言語化して、それを乗り越えたいと思うなんて、すごいと思うよ。

たしかに、A君のいうとおりこれは健常者の論理なんですよ。
ふたつの考え方があるんですね。
脆弱性モデルとレジリエンス・モデルが。

脆弱性モデルでは、
人は基本的にマトモというか正常のはずだという前提です。(人=健常者という論理ですね)
しかし、実際にはダメになってつぶれちゃう人がいます。
なぜそういう人が現れるのでしょうか?
それは、どこかが脆弱なんだと考えます。
身体が弱いとか、心が弱いとか、〇〇病とか〇〇障害とか、性格が弱いとか、親がダメだとか、学校がダメだとか。
そう考えれば、脆弱な部分を見つけ出し、それに合った対応をします。
治せるなら治すし、治せそうもないなら、正常の人とは区別して、そっと潰れないように無理をしません。
A君の恐怖心がもともとの性格とか〇〇障害とかA君本来が持つ脆弱性から来ていると仮定すれば、もう仕方がない、恐怖を乗り越えるなんてことは考えずに、恐怖を避ける生き方を考えます。

レジリエンス・モデルでは、
人は基本的にマトモでないというか弱いはずだという前提です。(人=弱者という論理ですね)
しかし、実際には頑張って乗り越える人がいます。
なぜそういう人が現れるのでしょうか?
人に助けを求められるとか、支えとなる人がいるとか、自分の限界を知っているとか、全面的に信頼できる超越した存在に守られているとか、コミュニケーション能力を持っているとか、、、何かわからない要因があるはずです。
そう考えれば、乗り越える力(レジリエンス)をどうにか見つけ出し、それをうまく活用します。
そう考えれば、本来弱い人間でもどうにか電車に飛び込まず、それなりに幸せを感じて生きながらえることができます。
人間はもともと弱いですから恐怖心があって当然です。A君が弱いとかおかしいわけではない。人間という存在自体が弱いわけですから。A君の恐怖心を何とか乗り越えて生きながらえるかもしれません。
A君のレジリエンスは見えてきました?
今まで、あまり成功体験が得られていないからはっきりとは見えてないけど、何となくA君の芯の強さを最近感じます。
それは、お母さんがA君を追いつめたことが逆説的に功を奏したのか、
あるいは、私といろいろなことを話せたことも原動力になったかもしれませんね。
他にもあるのかもしれません。

子どもからの視点

確かに今、私は動けなくてよどんでいます。
でも、そのことと親とは直接関係ありません。
母親は自分の育て方が悪かったと思い込んでいるんです。
たしかに小さいころ母は怖かったです。
ちゃんとした子どもに育てようと責任感が強かったのだと思います。
でも、良いんじゃないですか。特に子育てが悪かったとかはないし、別に親を恨んでるとかはありません。今の私の問題は私の責任ですから。

母親は今まで子育てしてきて築いてきた「私たち子どもの母親」というアイデンティティを捨てられないんです。
私はもうそんな歳じゃないのに。
私と母は似ている、、、と、母親は思い込んでいるみたい。
私とあなたは別の人間だから、、、と私は母に言いたい。言ってもわからないだろうけど。
そうやって子どもに依存してくる関係は正直なところ重たいです。
子どものことをほっておいて、自分のことを考えてほしい。
母親には自分の好きなように生きてほしいと思うのですが、今までずっと人のため、家族のために生きて来た人だから、「自分のため」といっても理解できないんじゃないかな。自分のアイデンティティを切り替えることができないのだと思います。

あなたの言うとおり。
とてもよく自分のこと、親のことをとらえられていますね。とても良いと思う。
確かにあなたは問題を抱えているかもしれないけど、それはあなた自身の問題。あなたが自分で解決する責任を持っているし、それを果たすことができると思いますよ。ちゃんとここまでわかっていれば。

でも、お母さんはまだ気づいていないですね。
子どもの問題で相談に来ているけど、本当はお母さん自身の内面の問題であるということに。
ある意味、「子どもの問題」とした方がお母さんにとっても楽なんですよ。
もちろん楽ではない、とても悩んでいらっしゃるけど、それは今までの「子どものための自分」というアイデンティティの枠組みの中での悩みですから今までやってきたことの延長線上にあります。

お母さんにとってもっと辛いのは、それを自分の問題と捉えなおすことなんです。
子どものことでは相談に来るけど、自分のことを相談しますというスタンスはなかなかとれません。
なぜなら、それはお母さんが自分自身に向き合うことであり、今まで築いてきた自分のアイデンティティを確認して、場合によってはそれを変更しなければならないからです。
それはとっても辛いのです。

2013年9月23日月曜日

安全に傷つく体験

  • 先生が講義の中でおっしゃっていた、「安全に傷つける」ということについて、具体例などをお話しください。
多くの方々から「安全に傷つく体験」について質問を受けました。一番重要な点なので、少し丁寧にご説明しましょう。
  • 「試練・傷つきが成長を促す」とありますが、ひきこもりソトの世界がない状態で、誰が試練を与えるのでしょうか?「親の声のかけ方・関わり方」なのですか?
はい。そのとおりです。親です。
他者との交流とのなかで「試練や傷つき」は与えられます。
ウチの世界にひきこもっていると、他者がいません。
他者との交流を避けるためにひきこもっています。
ひきこもっていると「試練・傷つき」の機会が失われます。そのままだとずっと成長できません。
唯一、利用可能な他者は家族です。
家族は、ふつうウチの世界の番人で、子どもが傷つかないよう保護します。
保護する機能(=母性)は大切ですが、それと同時に傷つけ、外に押し出す機能(=父性)が必要です。
子どもはウチの世界で保護する人よってに守られ、100%の自分でいることができます。自分の思い通りになる世界をまわりが作ってくれます。
子どもから思春期に成長し、ソトの世界に進出するには守ってくれていた保護壁から抜け出し、ひとりソロで相手と向き合わねばなりません。
他者というのは基本的に異質ですから自分の思うとおりにはいきません。必ず多かれ少なかれ傷つきます。100%の自分はもはやキープできません。それはよく考えてみればとてもショックなことです。
100%でなければもう自分ではなくなってしまう!
そう考えれば、傷つくような場面は絶対避けます。つまり、100%の自分をキープするか、前面撤退する0%のどちらしかありません。その中間はあり得ないのです。それが自己万能的自我です。

異質な他者を受け入れるには自分が折れなければなりません。10割のはずの自分が7割に目減りしてしまいます。3割ほど自分らしさが減ってしまうけどそれで構わないのです。残り7割でも大丈夫。十分、自分としてやっていける。でも、相手も多少削ってもらい自分を受け入れてもらいます。
1+1=2 にはならず、
0.7+0.7=1.4 にしかなりませんが、そうやって他者と折り合い、自分が居てもOKな「居場所」を確保することができます。自分が存在することで相手が少し影響を受けるわけで迷惑をかけるのですが、自分だって相手のせいで影響を受けているわけで、自分が「それでも良いよ仕方がないよ」と認めれば、相手自分を認めてくれるイメージを描くことができます。
「7割でも構わないよ。それでも自分が失われるわけではなく、十分に自分を維持できるよ!」と誰かに言われ、承認され、それで良いんだと思えれば、安全に傷つくことができます。
  • 家の中にいるだけで全く家族以外の人との関わりがありません。今は正直おだやかな毎日が過ぎている感じです。安心感はあるので、どうやって安全な傷つき方をすればいいですか。まず何をやってみればよいのでしょうか。
それはウチの世界に留まっている安心感です。ホントの安心感ではありません。
できることはたくさんあります。そのひとつとして、外に誘い出してみてください。
怒ったり強制するのではなく、穏やかに、丁寧に、しかし力強く伝えましょう。
「外に出れば傷つくでしょう。でも、大丈夫、傷ついても構わない。傷ついても自分がこわれることはないから試してみてごらん!」
このように「外に出ても、傷ついても良いのだ。おまえは外に出て成長できるから大丈夫だ!」という安心感を与えてください。
  • 息子に外に誘い出そうとするのですが、すべて「ノー」と拒否されるので私はもう声をかける元気もなくなってしまいます。こんな時、どう気分を立て直し、どう対応したらよいでしょうか?
元気がなくなるのは当然だと思います。
元気や勇気は自分ひとりで作り出すものではありません。
人からもらうものです。人との交流から生み出されるものです。
自分の行為や努力に対して、人から「イエス」と肯定され承認をもらうと、ああ自分はこれで良いのだと元気が発生します。
逆に、人から「ノー」と否定されると、元気が失われます。
このようにして、親から子どもに元気を伝えます。
その逆も同様です。親も子どもから元気をもらいます。
親が子どもに働きかけ、「イエス」をもらうと親は元気になります。
その逆に、「ノー」をもらうと親の元気はなくなります。当然ですね。

では、どうしたらよいのでしょうか?
親は誰か他の人から元気をもらってください。
子どもはもうしばらく「ノー」を突きつけるでしょう。子どもから元気をもらうのは無理です。
両親の間で元気を醸成してください。
たとえば、父親が子どもに働きかけ「ノー」を突きつけられたら、妻が夫に対して「イエス」を伝えてください。
「お父さん、今は子どもからノーだけど、そうやって子どもに伝え続けた方が良いよ。『イエス』だよ。お父さん、がんばって!」
というように。
お母さんが関わる場合は、夫から妻に「イエス」のエールを送ります。

要するに、元気のバケツリレーなんです。
子どもが元気を回復するために、親が元気を与えます。
親が元気を回復するために、もうひとりの親(あるいは家族の誰か)が元気を与えます。
家族が元気を回復するために、社会には支援者と呼ばれる人たち(たとえばカウンセラーとか)がいます。私もその一人です。
  • 父親が話しかけようとすると、逃げたり、口をきかなくなるので、何も言いたいことを言えません。
言いたいことはしっかり伝えましょう。
それが親の果たす義務です。
親から子へ、命を繋いでいくわけですから。
  • では、どうやって伝えればいいのですか?
それは、ハウツーではないんですよ。
大切なのは言おうとしている親の元気さです。
親に元気があれば自然に子どもと向き合うことができます。不思議ですが。
元気が足りないと、心配したり、焦ったり、怒ってしまいます。すると、逃げる子どもを捕まえたり、無理に迫ったり、うまく伝えられないどころか修羅場になってしまいます。
  • 両親とも健康で、普通に生活しています。病気もせずに元気ですけど、、、
いやいや、、、
それは身体の元気さです。
私が言っているのは、心の奥底の元気さです。
  • 娘は大変傷つきやすく、テレビやインターネットなどのちょっとした言葉にも自分の考えと異なると深く傷つき、思いつめて死にたくなってしまうのです。
その傷つきの気持ちをよく聴いてあげて下さい。
そして、「そんなことない!」と否定するのではなく、受け止めてあげて下さい。
十分に気持ちを理解してあげれば良いです。娘は自殺するのではないだろうか、、、と心配しなくても大丈夫です。
そして親が言いたいこと、言うべきことをしっかり伝えましょう。
娘さんは、死にたいわけではありません。
死にたくなってしまうほど辛いのです。
「死にたい」というのは「辛い」という気持ちにかかる修飾語です。
その辛さを十分に受け止めれば、大丈夫になります。

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これらのことを親が行うためにとても重要な前提条件があります。
親が心の元気を確保していることです。
それは、心のコップに人の気持ちを受け止めるだけの余裕があることです。
それは、親が希望を持っていることです。
未来のことは、だれも知りません。
希望とは、誰もわからない未来を肯定的に受け止める力のことです。
不安とは、誰もわからない未来を否定的に受け止める心のクセです。

「安全に傷つく」ということなんです。
何でもかんでも、傷つけば成長できるというものではありません。
安全に傷つく」のです。
  • その安全とは何でしょうか?
家族など重要な他者が、自分のことを肯定的に受け止ているのだという安心感です。

講演会の反響

 先日は講演会ありがとうございました。
 先生の軽快な語りと、明確な表現で、本当にあっという間の2時間でした。田村ワールドに引き込まれました。
 「安全な傷つき」「ウチの世界・ソトの世界」「家族の力」「勇気」など、たくさんのキーワードをいただきました。
 ご家族からのいくつかのアンケートには、「勇気を持ちたい」と書かれていました。

どうも、お疲れさまでした。

実は私としては講演の後、ちょっと後味が悪かったんですよ。
少し言い過ぎてしまったかな、ひきこもりの家族の方々にはちょっときつかったかなと反省していました。
でも、「勇気を持ちたい」というみなさんのお言葉に、私もあれで良かったのだろうと自分の話したことを肯定する勇気を持つことができました。
 講演で最後に紹介した「ひきこもり脱出講座」への申し込みが殺到しているんですよ。多くの方々にとってプラスになったのですね。私としても嬉しいです。それで、急きょ次の講座を11月に開始することにしました。

2013年9月16日月曜日

家族臨床-私の見立て (2):関係性モデル

関係性モデル

 このように臨床家として駆け出しのさまよえる時期に私は家族療法と出会った。大学院生であった私は1984年の本学会第一回大会のミニューチンの講演を聞き、家族を理解する枠組みに目から鱗が落ちる思いだった。学会をきっかけとして当時国立精研にいた鈴木浩二先生のもとで半年ほど学んだ後、ロンドンで3年間家族療法を学んだ。これらの臨床体験とトレーニング体験を経て、私の視点は個人中心の医学モデルから関係性モデルにシフトした。

ロンドンのTavistock Clinicでは対象関係論とシステム論を学んだ(文献1)。水と油のような両者の共通点は「関係性」である。乳幼児期の母子関係に限らず、人は一生を通じて安全な関係性の中でエンパワーされ、不安定な関係性の中で生きる力が削がれ病理を生み出す。問題を維持しているのは個人の内部にあるのではなく、個人を成り立たせている文脈にある。臨床も全く同様であり、安全な治療関係の中で人は癒される。

(安全な関係性と不安定な関係性)
安全(secure)な関係性の基盤があると、未知の他者を信頼して肯定的な側面に目を向ける力を得ることができる。お互いに本音を伝え合い、考えの異なる他者を認めつつ相互が適度に自己主張して折り合う。安全な関係性の中で開示された否定的体験を他者が承認し、関係性を築く自信を得る。肯定的な自己をつくり、人生の困難を乗り越える力を得てライフサイクルを前に進めることができる。思春期の子どもは社会性を獲得し、家族から巣立っていく。

不安定(insecure)な関係性の基盤の上では他者を信頼できず、どうしても相手の否定的な側面に目を向けてしまう。自己主張すると相手を傷つけ、自分も傷つくので本音を伝えることも、違いを受け入れることができない。親密な関係性の中に不安を抱えているために、新たな関係性を築こうとしても不安が先行してしまう。親密な他者から十分に支えられず、お互いの不安を投影し合い、不安が家族間で連鎖する。肯定的な自己像を作ることが困難になる。困難や問題に直面しても十分に話し合うことができず、孤立したまま不安に満ちた解決策を繰り返してしまい、よけい不安が増大してしまう。ライフサイクル上の変化や突然の人生の困難さに向き合うことができず、停滞してしまう。思春期に入りソトの世界の新たな関係性に不安を抱き、傷つきから身を守るために外界との関係を絶ちひきこもることもある。

ひきこもりは個人病理でも家族病理でもなく、安全な関係性が確立できない状態と私は考えている。思春期は関係性のスキルを獲得していく時期である。家族や小学校など受動的に関係性が与えられるウチの世界から見知らぬソトの世界に飛び出して、自己に責任を持ち、能動的に他者との関係性を作り始める。人は通常の社会生活を営んでいるかぎり、人々と交流体験を通して関係性を進化させる。巣立つ元の家族関係に焦点を当てなくとも、巣立つ先の関係性で試行錯誤することで成長する可能性がある。しかしひきこもり、他者との関係性が絶たれると成長の機会を失う。それが長期化して、臨床場面にも本人がやってこなければ、唯一のこされた関係性は家族のみである。家族という関係性をいかに有効な資源として活用できるかが最重要のテーマとなる。

家族は問題を抱えると不安定な関係性に傾きやすい。それが長期化すると不安の悪循環に陥り固定化してしまう。このパターンは夫婦不和、実家との葛藤、ひきこもりなど慢性的な問題を抱えた家族によく見られる。臨床家は家族に参入して治療システムを形成し、関係性の安定を図る。そのためには専門家という立場を利用して各メンバーを共感的に理解し信頼関係を樹立する。家族各人の立場をねぎらい、相手から否定されがちな状況を肯定的に意味づけする。たとえば、子育てに関して両親がお互いのやり方を批判しあっているとき、父性・母性という異なるアプローチが子どもには必要であることを説明して両親それぞれの異なる立場を肯定する。家族がお互いに傷つけあうことを恐れ、本音を伝え合えない関係性に臨床家が参入し、双方を肯定しながらコミュニケーションを促がす。このような働きかけをあきらめずに繰り返していく中で家族の関係性が多少とも好転して、各メンバーが潜在的に持っていた解決策を語り始める。そうなれば治療者が直接問題解決に関わらなくても、家族自身の力で自らの危機を乗り越えられるばかりでなく、家族が自信を回復し、レジリエントな家族システムへ進化できる。

このようにして不安定な関係性をより安全な関係性に変化させるのが関係性モデルにおける臨床家の役割である。それを遂行するために最も重要な要件は、治療者・クライエント間の安全な関係性を確保することだ。それを複数の家族メンバーとの間に同時に確保することは、個人セラピーに比べて難易度がかなり高い。治療への動機づけはメンバー間で差がある。動機づけの高い人に比べて、低い人との関係性構築がより難しい。また一方との信頼関係がもう一方との関係性樹立の妨げになることもある。治療者は中立性を保ちつつ各メンバーに深く共感し、焦らず丁寧にジョイニングしていく。

(関係性の中で見立てる)
関係性モデルでは観察者から切り離された客観的な対象としてではなく、関係性という枠組みの中で見立てる。共感的な理解は臨床家自身の感情体験を投影する主観的な体験である。

クライエントが問題をどのように語り、そこにどのような感情を乗せるかは臨床家との関係性に大いに影響される。治療初期の信頼関係が途上の段階ではクライエントも臨床家も納得のいかない中途半端な語りしか得られない。治療を進め信頼関係が深まると問題の背景や解決の可能性について初期の頃とは全く異なる内容が語られるようになる。深化する関係性の中で、見立ては常に変化している。

 臨床家が持つ見立て(診断名というストーリー)はクライエント自身が持つ見立ての上位に位置するものではない。臨床家は理論的枠組みと臨床経験という強みを持ち、クライエントは自分の体験という多くの情報の中からどの部分を切り出すか自由に選択する。いずれにせよ双方が持つ見立ては多くの可能性の中から恣意的に選んだひとつのストーリーにしか過ぎない。たとえば、多くのクライエントはなぜ学校に行かずひきこもっているのか「分かりません」「理解できません」という姿勢で相談にやってくるが、よく話を聞いていると本人も家族も何らかの「見立て」を持っていることに気づく。「うちの子は何かの精神病かもしれない。」、「親には言えない悩みを抱えているから、専門家と話せば良くなるはずだ。」、「親の関わり方が良くなかったから。」、「単に甘えているだけ。母親が甘やかしているから。」といった具合である。これらの見方は臨床家の見立てとは別の次元の主観的な見立てであり、家族内でも父親・母親・本人さらにはきょうだいの間で異なる。まずそれらをよく導き出すことが肝要だ。ひとりのストーリーよりは複数の異なるストーリーがあった方が良い。臨床家とクライエントがそれぞれの見立てを出し合い会話する中で相互に影響を及ぼし合い、語り方が変化していく。それを積み重ね何度もバージョンアップした末に、「なるほどそういうことだったのですね。こうすれば問題が解消されるのですね。」と腑に落ちるストーリー(alternative story)を臨床家とクライエントが持つことができれば、治療という行為は成功とみなされる。

(臨床家自身の関係性に焦点を合わせる)
臨床家は自身の体験を投影することによってクライエントに共感する。クライエントが表出する影の部分(否定的な感情や体験)を否定したり、怒りや不愉快な反応で防衛することなく肯定的に受け止めることでクライエントは安心と臨床家に対する信頼を得る。信頼関係に裏打ちされた自己肯定感が育つと、当初は否認していた光の部分(自己および他者に対する肯定的評価)を表出するようになる。臨床家はそれを自身の光(肯定的な体験)に照らし合わせて共感することによりクライエントと臨床家の間に安全な関係性が育成される。クライエントはその体験を家族関係にも波及させて、より安全な家族関係を築くことができる。

臨床トレーニングの中で自己の体験を外在化できれば、それを臨床現場で自由に利用できる。それは①一個人としての生育歴・家族歴に埋め込まれたライフサイクル上の重要な他者との否定的・肯定的な関係性であり、②臨床現場における関係性に埋め込まれた感情体験である。否定的な体験を語り、未だ言葉にされていなかった体験に言葉を与えていく作業の困難さを体験し、それが他者に受け止められる安全感を体験する。精神分析家のトレーニングにおいて自己の内面を振り返る教育分析が基本となるように、家族療法家にとって自己の体験を振り返るトレーニング self of the therapist training) は基本中の基本である (文献2)。

私も臨床家になってから何度もこのトレーニングを繰り返してきた。20歳代で行った時はまだ自己体験を落ち着いて振り返る余裕はなく、全く腑に落ちなかった。結婚、子育て、パートナーの喪失などの家族体験を重ねていく中で、自己のストーリーは30代、40代、50代と年齢と共に変化していく。臨床家にとってクライエントと協働する臨床体験はパーソナルな自己の生活体験と相似形であり、臨床家が自己を語るトレーニングの場を持つことが、クライエントが自分を語りうる臨床場面を提供することにつながる。

(文献)
1) Byng-Hall, J. (1995) Rewriting Family Scripts: Improvisation and systemic change. New York, Guilford Press.
2) Baldwin, M. ed. (2000) The use of self in therapy. New York, Haworth Press.

家族臨床-私の見立て (1):医学モデル

医学モデル

一言で言えば私の見立て、つまりクライエントを理解するための準拠枠(framework)は医学モデルから出発して関係性モデルに落ち着いた。

不可解で個別バラバラな現象を整理して概念化するためには何らかの理論的枠組みが必要だ。医学モデルは①アセスメント(診断)⇒②介入(治療)という二段論法であり、「診断の正確さ」にこだわる。痛みや体調不良といった主観的な体験は背後に隠されている生理現象という真実を解き明かすための糸口に過ぎない。科学(science)の一分野としての医学は主観的体験を突き抜けた向うにある客観的真実に迫ろうとする。

身体医学には物的証拠があるので分かりやすい。本人の主観的な訴えの詳しい状況(たとえば、ただ「痛い」というだけでなく、どのような時に、どんな状況で、どの部分が、どのように痛むかというように)、診察による客観的な身体所見、それに血圧測定、血液検査・尿検査といったデータを統合して身体のどの部分にどんな出来事が起きているのか探りを入れる。その仮説に特化した検査を行い診断を確定する。たとえば頭痛とめまいがする患者さんを診察して脳の問題にあたりをつけたらCTやMRTを撮ってa)脳内出血かb)くも膜下出血かc)硬膜外出血かを鑑別し、身体の中で本当に起きている真実を見極める。正確な診断さえつけば治療の道筋が自ずから見えてくる。実際には頭痛とめまいを引き起こす病気はたくさんある。頭ではなく心臓や肺や別の部位の問題であったり、膠原病のような全身性疾患かもしれない。限られた情報の迷路を辿るようにして如何に正確な診断に迫るかということに医者は命をかけている。NHKテレビ番組「総合診療医ドクターG」の世界だ。

一方、精神医学には物的証拠がなく、本人の主観的体験しかないので実に分かりにくい。アルコール依存症や脳血管障害による認知症といった身体を基盤とした疾患を除けば、多くの心の問題にはデータ化できる客観的エヴィデンスがない。統合失調症やうつ病などの内因性疾患の場合、寄せ集めた症候をDSMなどの操作的診断基準に照らし合わせて疾患名の仮説を立てるが、それを客観的に証明し、確定診断できない。たとえ世界共通の診断基準を使っても、訴える所見を異常とみなすか否かの判断は主観性の何物でもない。たとえば被害妄想、離人体験、失見当識といった普通の人は体験しない、精神医学の教科書に載っているような症状はまだわかりやすい。しかし、だれもが経験しうる状態を異常所見とみなすかという判断はとても難しい。

たとえば、うつ病の診断基準にある「何もやる気がしない、仕事や家事が手につかない状態(意欲の低下)」は誰でも多かれ少なかれ経験することであり、その経験を全く持たない方が異常だろう。あるいは広汎性発達障害の診断基準には「発達水準に相応した仲間関係を作ることの失敗。楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有することを自発的に求めることの欠如。(対人的相互反応における質的な障害)」というのがある。この基準自体は妥当であっても、それを実際の子どもたちにどう当てはめるかは、判断する人によって全く異なる。まず、「発達水準に相応した仲間関係」をどうとらえるか大きく意見が分かれるだろう。また分かち合えるような他人がいなければ自発的に共有するわけがない。つまり本人自身の問題ばかりでなく、本人を取り巻く関係性が問題になる。

正常・異常の線引きはヤスパースのいう「了解できるか」で判断するしかない。何もやる気がしなくなるような心因(心理的要因)を語ればなるほどと腑に落ちるが、そのような背景となる情報が得られなければ腑に落ちることはない。このように了解可能性とは、どれほど内面を掘り下げて理解するかきわめて主観的な判断のはずなのに、資格を持った専門家の判断が科学的に記載された「真実」として格上げされてしまう。しかし実際の臨床では熟練した臨床家でも診断名はバラバラであり、「正しい診断」に近づくどころか、関わった臨床家の数だけ診断名が拡散してしまう現状を目の当たりにしてきた。

診断基準に当てはまりにくい人をどうにか診断して医学モデルに当てはめるためにはふたつの抜け道がある。ひとつは仮説としてのゴミ箱的診断名である。たとえば、私は学生の頃に微細脳症候群 (Minimum Brain Dysfunction; MBD)という概念を習った。知的な障害がないのに集中困難な子どもには様々な検査では見つからない微細な障害が脳にあるという想定の診断名である。注意欠陥・多動性障害(ADHD)の昔の呼び名であり、今では死語となっている。診断書によく使う「自律神経失調症」もこの部類に入るだろう。

もうひとつは既成の疾病概念を広げて診断しやすくする方法だ。たとえば従来からあったカナー自閉症の概念を広げた「自閉症スペクトラム」や、内因性うつ病(またはメランコリー型うつ病)の概念を広げた非定型うつ病、ディスチミア型うつ病、新型うつ病などの呼び名である。これらは多くの事例から類型化を試みた症候論であるが、その背後の器質的な要因は原因不明のままである。私が臨床に関わってきた約30年の間にもこの類の概念や疾患名が目まぐるしく変化してきた。私は統合失調症や双極性障害のようないわゆる病気らしい病気にはあまり関わらず(というかあまり興味がなく)、不登校、ひきこもりといった精神疾患というより家庭や学校などの問題とも、思春期危機ともとれるテーマを扱ってきたので、医学モデルは実に使いにくい。ひきこもっている本人とは会えず、親と接する機会が多かったので本人の内面以上に家族など本人を取り巻く文脈まで広げた見立ての方法論を探し求めていた。


2013年9月12日木曜日

ひきこもりの不安に向き合う勇気

A君はちゃんと現実に向き合っていると思います。
自分の恐怖心を言葉に表して向き合っていますね。

  • 将来への不安:このままひきこもっていたら将来、親がいなくなり野垂れ死ぬ不安。
  • 自分の評価が低い不安。自信がない。
  • 就職する不安。履歴書を書いたり、面接したり。
  • 人との関係の不安:怒られたり、否定されるかもしれない。

ふつう、人は恐怖心を避けます。恐怖に向き合おうとしません。危険ですから。
でも、A君はカウンセリングを続けた結果、ここまで来ることができました。

このままではいけない。どうにかしないといけない。
そのためには自分の弱さと向き合わねばならない。

理屈で考えればそうですよね。至極もっともなこと。
でもそれを実行するにはとてつもない勇気がいります。

ひきこもり、人を恐れるA君は弱いです。
でも、その恐れに向き合おうとしているA君はとても強いです。

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Bさんはたくさんの不安を抱えていますね。
それにきちんと向き合っている。
素晴らしい勇気をお持ちです。

戦争による疎開、いじめられ体験。
結婚だって、当時は親の言うことを聞くしかなかったのでしょう。
夫婦ふたりだけの時はまだ良かったけど、子どもたちが生まれ孤軍奮闘、本当にきつかったでしょう。
それまで黙って従っていたご主人に、いろいろ言いたくなるのも当然です。

本当は家族みんな仲良くしたいのです。

当然です。でもBさんにとってそれはとても困難なことでした。

私はどうしても素直になれないんです。

いや、こうやって話しているあなたはとても素直ですよ。素晴らしい。
Bさんの人生には多くの不安・恐怖が渦巻いていました。不安の下では素直になれません。いや素直になってはいけません。相手に攻め込まれ、自分が崩れてしまいます。危険すぎます。
こうやって、安全な環境下では、きちんと素直になれますね。あなたはベストを尽くしているんです。

いや、これもひきこもっている息子のおかげなんです。
息子のことを何とかしたいと思って、こうやって自分を振り返ろうとしています。

そうですね。でも、それも難しいことなんですよ。家族に問題を抱えていても、素直になって自分を振り返ることができない人はたくさんいますよ。
Bさんは素晴らしいです!

2013年9月7日土曜日

心配係と承認係

A君のエンジンはかかりはじめたものの、まだまだ本調子ではありませんね。ちょっと走ったかと思ったら、エンストして止まってしまったり。
この時期、親の役割はふたつあります。

  • 心配係:A君のエンジンがストップした時に、「それじゃあダメだよ」とダメ出しをして心配してあげる係です。
  • 承認係:A君の良いところを、「そうその調子。それで良いよ!}と肯定してあげる係です。

お母さんは、心配係は得意のようですね。

はい。
ちゃんとご飯を食べて栄養を取っているかとか、健康は大丈夫だろうかとか、あとはスポンサーとしてお金のことなど常に心配しています。

給食係と保健係と大蔵省ですね。
それはとても大切なことです。しっかり心配してあげてください。そうしないと、A君はまだまだダメですから。
でも、承認係はあまり得意でないようですね。

承認というのはどんなことをすれば伝わるのでしょうか?
表現が薄く、気持ちが伝わらないことに悩んできました。
思えば、両親から誉められた経験がほとんどありません。妹が弱かったので母は妹につきっきりでしたし、夫婦仲があまり良くなく、お姑さんもいたので、母親はほとんど余裕がなかったのだと思います。姉である私は何でも一通りこなすことができたので、ほとんどほっておかれました。その後も母親からは承認されないまま亡くなってしまいました。父は仕事が忙しくて、家庭にはほとんど関わらない人でした。

確かに、「承認」というのは気持ちの問題ですから、ハウツー的に「よくがんばったね。それで良いよ。」と言ってみたところで、妙にしっくりこなくてわざとらしくなってしまったりします。
他者を承認するためには、自分が承認を受けた体験がとても大切です。
承認を受けた人は、あえて意識しなくとも自然に人に承認を与えることができます。
承認を受けた記憶がない人は、いくら意識してもぎこちなくなってしまい、人に承認を与えることをとても苦手に感じてしまいます。

なぜ私が苦手なのかよくわかります。
私が親から褒められて嬉しかったと感じたことは一度だけ、大学に合格したときだけです。

承認を受けた記憶が出てきましたね。それはとても良いことです。どんな具合だったのですが、よく教えてください。

合格を知らせたら父が「おめでとう」と言って、私と握手しました。

その時、どんな気持ちがしましたか?

実は第一志望の大学ではなかったんです。とりあえず受かったけどホントにこれで良いのだろうかよくわからなかったのですが、父と握手して、自分がやってきたことは間違いではなかったのだという確信を持てました。

そう。その感覚が大切なんです。お母さんはとても大切な記憶をよみがえらせることができましたね。
A君は今、まさにそれを必要としています。人よりだいぶ遅れてしまい、とりあえず今、エンジンをかけてみたものの、ホントにこれで良いのだろうか、今さら走り出してももう手遅れなのではないだろうか、もうオレの人生は台無しになってしまったのかもしれないと戸惑っています。
「遅れても構わない、今のカタチで前に進めば良いのだよ、それで大丈夫だよ」と承認してくれる人を求めています。
大丈夫。お母さんは承認された体験をお持ちだから、A君の承認係をしっかり務めることができますよ。

はい。自信ないけどがんばってみます。

、、、こうやって承認係は苦手ですというお母さん自身を私が承認して、お母さんがA君を承認できるように支援しました。承認の連鎖ですね。

2013年8月23日金曜日

保身に回りたくない

本当は保身に回りたくないんです。
でも保身に回っていました。

そうですよ、それは必要なことです。
人は強くなんかありません。弱い部分を持っています。
身を守らなければ、苦しさに耐えらえず崩壊してしまいます。
それを防ぐためには自分の身を守らなければなりません。

  • 人との距離を置くこと。人から遠ざかること。
  • 怒りのオーラで人を遠ざけること。
  • 学校や仕事を休むこと。
  • 人との交流を避け、ひきこもること。
  • 身体が反応して体調を崩してしまうこと。
  • 子どもを必要以上に心配して、先回りして守ってしまうこと。

すべて自分の弱さに起因しています。
弱くて良いんですよ。人はみな弱いのですから。

人は弱くなんかありません。強い部分を持っています。
一見矛盾しているけど、両方正しいのです。
人は弱さと強さと両方を持っています。
バランスの問題なんですよ。強さと弱さの両方を持っていたら良いのですが、弱さだけ見えて、強さが見えなくなると保身に回らざるをえません。
その強さを見出すことができたら、初めて保身が必要なくなります。

いえいえ、私は強くありませんから!
そうなんですか?
何を根拠にそう言えるんですか?
人は強さと弱さの両方を持っていると言いましたよね。100%強い人はいません。100%弱い人もいません。
あなたは「自分は弱いんだ」と思い込んでいるだけでしょ。それは間違いではないんです。確かに弱いです。でもそれと共に強い部分も持っているはずです。

そんなこと言われてもわからない!
あなたの強い部分は隠されて見えないだけです。それを発掘すれば、自分の強さが見えてきます。

発掘と言われても、、、どうやってそんなことをするんですか?
弱さを発掘します。
というか、弱さを発掘するという作業自体が強さを獲得することになります。
ふつう、人は自分の弱さを見たくないもの。自分自身で隠しておきます。そうすると、弱さは弱さのまま変わりません。
弱さを思い切って自分で発掘します。自分の弱さの起源を探し求めます。
その作業はひとりではできません。信頼できる他者が必要です。
弱さとは否定的な体験です。というか少なくとも自分で否定している体験です。
だから、それを見たくありません。自分でも見えないようにしておきます。人には絶対に言わないし、自分でもその部分を避けています。

人は、人との関係で傷つきます。人との関係で「弱さ」を獲得します。

  • 人から傷つけられた体験。
  • 愛してくれるはずの人が愛してくれなかった体験。
  • 承認してくれるはずの人から承認を受けなかった体験。

これらが、人の弱さです。こんな状態で自信を持てるはずがないです。

人との関係の傷は、人との関係で癒すことができます。
人から暖かいを受けます。あるいは承認と言っても良いでしょう。
でも保身をして中身が見えなければ承認できません。
まず保身を解いて中身を見せなければなりません。
小さな子どもは保身できませんから弱い自分をそのまま見せてくるので、愛と承認を与えやすいです。
大人は保身しますから、なかなか愛が届きません。
まず少しだけ保身を開いてもらい、その部分を承認して、自信を得たらもう一歩深く開いてもらい、また承認していく。すごく時間がかかりますが、一歩ずつ深めていきます。

弱い部分、つまり自分で否定している部分を見てもらい、
「たしかに弱いね。でもそれで良いんだよ。」
と承認してもらいます。
人から認められるということは肯定されることです。そうやって否定されていた部分を、肯定される部分へとオセロのようにひっくり返します。

しかしオセロのようにそう簡単には行きません。そのような交流の根底にあるのは愛です。愛にもとづく関係性の中で、人は弱さを克服し、強くなることができます。

人を弱くするのは愛の欠如(無関心)、傷つく関係、不安な他者との交流です。
人を強くするのは、愛、信頼できる関係、安心する他者の支えです。

2013年8月16日金曜日

ひきこもり語録4

先生のように距離を置いた人と話せるのが良いんです。
家族のように近い人とは繋がっているというか、今までの縁とかしがらみがあるから話しにくい部分もある。
先生も私のことは知っているし信頼はしているけど、でも距離がある。
知り合いとか友人とはどうしても気をつかってしまい、話しにくいんです。自分がひきこもっているという引け目もあるし。

カウンセラーはウチとソトの中間に位置するんですよ。
ウチの人はしっかり結びついて何でも知り過ぎているから距離を取りにくいですね。
ソトの人はどう思われているのか気になります。もしかしたらヘンに思ってないかなって。
カウンセラーは日常生活の中には入ってきません。カウンセリングという意図的に設定され、限定された関係です。理解され、裏切ることはないという安心感(信頼感)があります。でも、切り離されています。
カウンセラーが触媒となり、ウチの世界からソトの世界へ移行することができます。

2013年8月9日金曜日

私的休暇論


今、のんびり休暇してます。
普段の時間の枠組みを外し、自分のための時間を、自分の好きなことに使い、リラックス、リフレッシュしてるのだけど、私の場合、休暇は必要なのかなあ?

オン=お仕事の時間。会社のために、お金のために、自分を犠牲にして、やりたいことを我慢して、エネルギーを使い果たす。この場合のエネルギーって、気持ちの充足度、ストレスの溜め込み具合みたいなこと。
オフ=遊びの時間。自分のために、自分のやりたいことをして、自分を楽しませる。普段貯めたお金を使い、ストレスを解放し、エネルギーを充電する。本当の自分に戻る。心身の疲れを癒す。

そう考えると私の仕事は自分が選んだやりたい仕事で、それほど心身は疲れません。もちろんクライエントの深刻な悩みや苦しみを受け取る時は細心の注意を払い、気をつかいます。でも、心の深みに一緒に降りて行き、そこから一緒に浮上して行きます。クライエントがストレスを解放し、前に進むエネルギーを取り戻すお手伝いをするわけで、そのためには私自身もストレスを解放し、前に進む喜びを分かち合います。人が私と関わることで気持ちを充足させるということは、私自身の充足感にもつながります。
だから「オン」の時間にストレスを解放しエネルギーを充電してるので、あえてオフの時間を取らなくてもバランスは取れています。

というか、私はリゾート地でのんびりとか、名所旧跡巡りというタイプではないみたいです。
スポーツで身体を動かしているか、誰か人と交わっている時が一番充実感を得るみたいです。

2013年8月4日日曜日

ひきこもり脱出講座「親のリーダーシップ」

7月31日
今回のシリーズは今日が最終回でした。
次回のシリーズは9月より開始します。

まず参加者の感想から紹介します。
  • 今回の講座で勇気が出ました。一歩一歩ですが、私の正直な気持ちを息子に勇気をもって伝えることができそうな気がします。親がリーダーシップをとるということ、難しいです。
  • グループ・カウンセリングを受けて、とても良いチャンスを与えてもらい感謝しています。実際に子どもの対応に生かすことで、今回得たものを実りあるものにしていこうと思います。
  • 「覚悟と勇気」、「親のリーダーシップ」という言葉が心に響きました。子どもに働きかけようとせず、親も同調して「ひきこもりモード」になってしまうのは良くないと思いました。
  • みなさんのお話しに刺激を受け、コミュニケーションの取り方や、自分自身の立ち位置が明確になりました。
  • 子どもに「大丈夫。できるよ。」と伝えることは、自分自身にも「大丈夫。できるよ。」と認めることだと思いました。ペナルティーリーダーシップについて考えてみたいと思います。そして実行します。
みなさんとの話し合いの中から出てきた今日のテーマは親のリーダーシップということでした。
親はふたつの役割を持ちます。

1)ひとつは子どもを愛し、受け入れ、家庭という温かい居場所と愛される安心を与えることです。親の優しさを与えます。

2)もうひとつは、戸惑い、自信を失いかけている子どもに元気を与え、方向を指し示し導いてあげることです。親の強さを与えます。

親のリーダーシップというのは(2)の方の話です。
(1)と(2)は、一見反対のことのようにも見えますが、そんなことはありません。両方とも大切なことです。どちらかと言うと現代の子育ては(1)が重視されがちです。しかし、(2)もとても大切です。特に、行き場を失い、戸惑っているひきこもりの子どもたちにとって、これが解決の糸口になります。
時には子どもの意思に反してダメだしをしなくてはなりません。自信を失い、引っ込み思案になっていれば、「大丈夫、あなたならできるから躊躇せずにやってごらん!」と子どもを強く前に押し出します。

リーダーシップとは、的確な審判員でもあります。
サッカーの審判は、必要な時にはイエローカードやレッドカードを高く差し出します。
ダメなときはダメとはっきり伝えます。
そのような枠組みがあってこそ、初めて選手たちは安全にサッカーの試合をすることができます。
審判がしっかりイエローカードを出してくれないと、選手たちは戸惑い、心配になってしまいます。

そのような健全なリーダーシップを親は求められています。

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今日の最後に、全体を通しての感想をお伝えしました。
今回、お話したことは、グループの力です。
個人カウンセリングと、グループ・カウンセリングには、それぞれのメリット・デメリットがあります。

個人カウンセリングは、すべての時間を自分のために使い、プライバシーを気にせず、話を深めることができます。デメリットとしては、1対1のガチンコ勝負で、話が煮詰まってしまうことがあります。

グループカウンセリングのデメリットは、それぞれの人に割り当てられた時間が限られることです。またまわりの人の目を気にすると、あまり深い話は躊躇してしまいます。逆にメリットとしては、多くの関係性の中で、情報やエネルギーを得ることができます。カウンセラー以外にも、参加しているみんなから情報や解決のヒントやはげましを得られます。似たような状況の人が横にいるだけで気持ちが安らぎ勇気が出てくることもあります。

今回の講座では、そのようなグループの力を存分に発揮して、個人カウンセリングでは得られない気づきがたくさん得られたように思います。それは、参加したみなさんばかりでなく、カウンセラー役をしていた私にとっても同じです。カウンセラーとしてみなさんをどう支援したらよいのか、たくさんの示唆を得ることができました。

次回の講座は9月の後半より開始します。
だいたい、今回と同じような内容で進めようと考えています。
どうぞみなさん、ご参加ください。

2013年8月3日土曜日

ひきこもりの家族関係(2)

お子さんは、お母さんととても仲の良い、何でも話し合える関係なのですね。
それ自体はとても良いことなのですが、まわりから隔絶した完結した世界を作り上げてしまっているようす。

お子さんは、これまでの居心地の良いウチの世界から、居心地の悪いソトの世界へ飛び出す年齢に差し掛かっています。
ソトの世界は思い通りには動いてくれません。たくさん傷つきます。でも、それを乗り越えてソトの世界に適応してゆきます。
その良き練習台になるのが父親です。それを活用しない手はありません。

お子さんは、母親とは何でもよく話すけど、父親とは躊躇してあまり話せないのですね。思い通りにいかない父親との関係に慣れていくことで、思い通りにいかないソトの世界にも徐々に馴染んでいくことができます。

その前提に、お母さん自身も夫との関係が思い通りにいかず苦労されているのですね。夫婦仲が悪いわけではない、とても良いご夫婦とお見受けしました。しかし、こと子どものこととなるとどうしてもうまくいかないと感じられているのですね。こちらに相談にいらっしゃるのも、ご両親一緒にと私からお勧めしても、どうしても抵抗感がおありのようです。

逆に考えると、そこがチャンスです。お母さんがその抵抗感を乗り越えて、夫と子どものことを話し合えるようになり、お母さんご自身が「思い通りに動く世界」から外に一歩踏み出せば、その勇気がお子さんにも伝わり、子どももソトの世界に踏み出す勇気を得ることができます。

お母さんの力はとても大きいですよ。
子どもをウチの世界に押しとどめる力にもなります。
その逆に、子どもをソトの世界に導き出す力にもなることができます。

ひきこもりの家族関係(1)

先生はひきこもりの家族をたくさん診られていると思いますが、その共通点は何ですか?

はい、急にふられたので考えてみました。
どの家族も千差万別、ひとつとして同じ状況はありません。
しかし、あえて共通点を探そうとすればいくつか見つかります。

あなたの家族の場合、
本人が内面に取り込んだ高い目標設定を乗り越えることができない状態です。

このような状況は他のひきこもり家族にも見られます。
子ども時代に(学校の先生からもありますが、主に)親から高い期待値を与えられ、親からの承認を得ようと子どもはがんばります。ある段階まではそれが達成され、本人にとってのアイデンティティとして内面化されます。
しかし、学年が上がり目標にどうしても達成できなくなります。100%達成できなければ6割か7割で良いじゃないかと自分自身に折り合うことができれば良いのですが、それができないと100%かダメなら0%しかありません。そうやって全面的に撤退してしまいます。

6割か7割の自分と折り合うことは簡単なようで難しいものです。
10割を達成できなくなり傷ついた自分を承認してくれる他者が必要です。
その他者は、子どもに期待し目標を設定した親です。
そのためには一方的に言い渡された目標設定ではなく、親子の間でnegotiateし、調整しうるだけの親密な関係が必要です。ケンカしてもいいから言いたいことを言える関係です。
しかし、残念ながらお子さんと父親との間にはそれを達成できるほどの深い関係性がありません。

お子さんは、今、とても苦しんでいます。自分自身に課し、内面化した目標を再調整することができず、前に進めず将来への希望をなくしています。
と同時にご両親も深く絶望していらっしゃいます。

お子さんはとても聡明な方です。
今は何もせず、ただインターネットで遊んでいるだけで、考えることを止めてしまったように見えるでしょう。しかし、しっかり考える力を持っています。だからこそ、考えることをあえて止めているのです。

繰り返します。お子さんは考える力と、今の逆境を乗り越える力を持っています。
しかし、今の逆境を乗り越えるための文脈(関係性)を失っています。
その作業はひとりでは不可能です。他者というtemplateがいて、向き合い、関わり合う中で自分のアイデンティティを進化させることができます。
その他者は友人、教師、カウンセラーなど信頼して深く話し合える相手ならだれでも構いません。
しかし、残念ながら今はそれらの関係が失われています。
唯一、残された関係は親子関係です。

本人を成長させるのは、本人自身の力でしかありません。他者がそこに介入することは出来ません。しかし、本人の力を発揮する文脈を他者が整えてあげることができます。
他者との関係性が失われたひきこもりの場合、親子関係が残された関係性として絶大な力を発揮します。
親子関係をてこにして、お子さんはひきこもりから立ち直る力を獲得することができます。

2013年8月2日金曜日

ひきこもり語録3

30代のAさんは社会との接点がありません。
カウンセリングには積極的に通ってきます。
最近、Aさんの語りが変わってきました。
ふだんの生活は何も変わっていません。しかし心の中は確実に変化しているようです。

『社会とどう関わっていったらよいのか、、、
社会的に認められるのはとても大変ですね。
生きていくためには必要なことなのですね。
その一方で、そのことを気にし過ぎてはいけないとも思います。
「生きているだけで良いや」と思う気持ちも必要だと思います。

一生懸命に生きてもまわりから認められず、自殺する人もいます。
一生懸命の程度と、社会で認められる程度は比例しないこともあるのだと思います。

死んだら、あの世や来世があるのかわかりませんが、少なくとも身体と記憶はそこでなくなるわけだから、死んだら全部お終いですよね。そこには大きな線がありますね。

せっかく生きているんだから、、、、と思いますよね。
それでも、辛いことはたくさんあります。

死んだら全部消えちゃうんですか?
今、死にたいと思っているわけじゃありません。そこを誤解しないで下さい。
生きるってどういうことなんでしょう、、、
その上で、人の役に立てたらいいな。

これから私がやろうとしていることは大きな挑戦だと思う。
「新卒採用」という大きなレールが社会にはあるから。
でも、ここまで来たら挑戦するしかないよね。

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生きていくためには、他者から認められることが必要です。
それは「生きていて良いんだよ。おまえは生きている価値があるのだよ。」という承認です。
ウチの世界で生きるためには、ウチの世界からの承認が必要です。
ソトの世界で生きるためには、ソトの世界からの承認が必要です。
ウチからソトの世界に巣立つには、「おまえはソトの世界で生きることができる。もうソトの世界に出てもOKだよ。」というウチの世界からの承認が必要です。

2013年7月31日水曜日

ひきこもり脱出講座(第4回)「ソフトランディング」

まず、参加者の感想から紹介します。

  • 不安定がないと安定しないということに通じる、着地するときには衝撃があるということが印象に残りました。
  • 「ソフトランディングを狙ってはいけない」ということが今日の収穫です。子どもとひっそりと生活を送っていると、どんどんひっそりした方向に向かっていきます。
  • ソフトランディングにも地上に降りるときはタイヤのショックはあるという言葉にとても感じるものがあった。覚悟と勇気。考えたいと思う。

4回目となり、みなさんの様子わかってきました。
現状を踏まえた上で、ひきこもりから脱出するために、次の一歩は何ができるでしょうか?
そんなことを各々考えてみました。

仮の安定性から、真の安定性へ。
ひきこもりとは、外敵から身を守るために築いた砦の中にいます。
ひきこもりから脱出するためには、仮の安定性をいったん崩さなければなりません。
砦から一歩外に出て、もしかしたらそこは危険が潜んでいるかもしれない、そんなリスクを覚悟して試してみます。バイトしたり、学校に行ったり、新たな居場所を訪ねてみたり。
きっと多少は傷つくでしょう。それでもどうにか持ちこたえるということを確認できれば、そこも安全な場所として砦を広げることができます。
それができれば、またもう一歩外へ。
これを繰り返しながら仮の安定性から、真の安定性へ拡張していきます。

一旦、自我境界を崩し、拡張するためには無傷でいることはできません。
馴染みの世界を手放し、傷つくかもしれない新しい場所にひとり降り立つ不安と闘わねばなりません。

その中で出てきたのが「ソフトランディング」の話です。
ソフトランディングを狙ってはいけません。
飛行機は無傷で着陸できません。
どんなに上手なパイロットでも、滑走路に着地するときは大きな衝撃を受け、飛行機のタイヤがすり減り、痛み、滑走路にゴムの足跡を残します。傷つかないと降り立てません。
着陸に失敗して地上にぶつかり、炎上してはいけません。しかし、どんなにうまく着陸してもタイヤは確実に傷つくんです。

ひきこもりから脱出するためには、その砦を安全に少しずつ崩してやらねばなりません。
親がそれを達成するには、親自身が今まで築いてきた「ここまでは出来る。これ以上は出来ない。」という自我の砦を崩さなくてはなりません。

そこまでやってしまって大丈夫だろうか?壊れないだろうか?
それを乗り越えます。
子どものために。
しかし、その前に自分自身のために。