2012年11月6日火曜日

ひきこもり青年と家族

私が青少年と関わる現場
私は思春期とその家族を専門とした精神科医である。受ける相談の多くが「ひきこもり」と言われる青年たちだ。投薬治療には重きを置かずカウンセリング、とりわけ家族療法という手法を取り入れている。これは一言でいえば心の問題を抱えた個人ばかりでなく、家族などのまわりの人たちにも焦点を当て問題を解決する手法である。
また、私は東京都のふたつの事業にも開設当初より関わってきた。ひきこもりサポートネットはひきこもり問題に悩む本人とその家族へ、若者総合相談(・э・)/若ナビは相談先が狭まる18歳以上の青年の悩みをインターネットや電話というメディアを通して支援している。
まず、「若ナビ」に訴えてくる内容を紹介しよう。多いのは仕事に関する相談である。たとえば就職がうまくいかない、自分に合った仕事が見つからない、どうやって自分に合った仕事を見つけたら良いのかわからない、どうやって就職活動をしたらよいのかわからないといった内容である。あるいは仕事が合わない、いろいろ仕事を試してもうまくいかない、何度転職しても気に入った仕事が見つからない、上司や仲間とうまくいかない、職場の同僚に恵まれない、上司が些細なことで怒ってくる、仲間のグチばかり聞かされて嫌だ、休み時間にどう同僚と接したらよいかわからない、自分だけ仲間はずれにされている気がするなどである。これらの悩みの背後には、人との関係をうまく折り合えない、職場を安心できる居場所として感じることができないという共通点がある。自分がこうあってほしい居場所と、実際に与えられている居場所がズレているために、自分と社会との間に違和感を抱く。
そのような体験が繰り返されるなかで、だんだんと人と関わる自信を失っていく。人とどう接したら良いのかわからなくなり、まわりの人々の眼差しを気にするあまり、自分がまわりからどう見られているか気にする。自分の存在がまわりの人たちに迷惑をかけているのではないか、自分はこの場にそぐわないのでは、自分だけ劣っているのではなどと感じる。それがさらに高じてくると、自分がいるために周りの人を不快な気持ちにさせているのではないか、悪口やうわさ話をしているのではないか、自分が周りの人を不快にさせるようなイヤな臭いを発しているのではないだろうかというような妄想(自己臭妄想)を抱くこともある。このように思い始めると落ち着かず、人の中にいるだけで緊張しストレスが高まり、その場から撤退する。一旦撤退してしまうと、なかなか社会に戻れなくなる。
もう一方の「ひきこもりサポートネット」に届く声は深刻である。生産的なことをやる気力がなくなり何もできなくなる。生活リズムが乱れ、朝起きなくなり、夜更かしして昼間に寝る昼夜逆転の生活になる。パソコンのゲームやインターネットを一日中している。一見、熱心に楽しんでいるかのように見えるがそうではない。確かにネットは時間を忘れ夢中にさせる効果がある。しかし、ネットがあるからひきこもるわけではなく、ひきこもりから抜け出せないために時間をつぶすためにしかたなくネットをやっているというのが現状だ。
このような不本意の状態になった原因を親などまわりの人に転嫁するのも特徴的である。親の対応の不適切さを責め、自分でうまくいかない責任をとらなければならないという考えは薄い。

万能的自我から社会的自我へ
なぜ社会の人々とうまく折り合えないのか、多くの青年たちとその家族と接する中でいろいろ考えてきた。その根底には子どもから大人へ心が成長する中で社会性を十分に獲得できなかった状態と私は捉えている。
子どもと大人の心のあり方は大きく異なる。子どもの心は万能的、つまり100%の自分でいることができる。乳幼児期から思春期にさしかかる10歳前後までの子どもは無力で、まわりから自分を守る術は持たない。親や先生などの保護してくれる人に守られ、無条件に愛されているという絶対的な安心感の中にいる。問題や困難があったら自分の力で解決できず、まわりの人が解決してくれる。この時期の子どもの自己万能感は保護者によって保障されたものである。
思春期にさしかかると自立心が少しずつ芽生えてくる。保護者によって支えられた万能感をてこにして、守られたウチの世界を抜け出しソト世界を試す。そこで生きていくためには自分の責任で他者と交流し、自分自身を守る社会的自我が必要だ。ウチの世界は安全性が担保されていたが、ソトの世界は危険に満ちている。攻撃をかわし、異質な人たちと折り合わねばならない。自分の枠組みをずらして相手に合わせたり、自己を主張して相手を近づけたり遠ざけたりする。相手は自分の期待どおりには動かず、自分のことを無条件に受け入れてもくれない。子どもの世界では当然保証されていた安心感を得ることができないので、多かれ少なかれ必ず傷つく。その経験を何度か繰り返す中で、今までの自己万能的自我ではもはややっていけないことに気づく。自分の思い通りになる100%の世界をあきらめ、他者と折り合うために自分の思いを削り70%に縮小される。完全な100%でもなく、全く捨てた0%でもない、その中間の妥協点という意味であり、70%でも60%でも50%でも構わないが、ここではかろうじて合格点の70%ということにしておこう。縮小された自分を良しと捉え、自分自身で受け入れることができたら、社会的自我の原型が芽生える。このようにして異質な他者と折り合う世界に居場所を確保できるようになる。
 しかしそれだけでは十分でない。万能的自我を捨て、社会的自我が確立するためには傷ついて70%に縮小してしまった自分を肯定してくれる他者の存在が必要である。それは条件付きの肯定である。子ども時代の万能的自我を支えた無条件の母性愛に対比すると、社会的自我を支えるのは、傷つき、否定された自我を肯定する条件付きの父性愛である。父性愛を担うのは子どもの心を安全に傷つけ、受け入れるのは至近距離でもなく、遠くもない斜めの位置から関わる大人である。学校の先生、部活の顧問や先輩、地域のスポーツクラブの監督などである。しかし最も大切なのは至近距離から母性的に愛する親ではなく、少し離れた距離から父性的に関わることができる親である。
子ども時代は親の母性機能が重要であり、父性機能は十分でなくても子どもはウチの世界の中で問題なく成長する。しかし、思春期以降にソトの世界に出て社会的自我を確立するためには父性的な機能が重要になる。旧来の権威的な父性ではなく、成長を促すために現状の一部分を否定し、傷ついた自我を支え、さらにそれを肯定する健全な父性である。ひきこもりの家族にはこの父性機能が不足している場合が多い。そのため父性・母性のバランスが崩れ、過剰な母性が子どもの自立プロセスを遅らせている。
父性と父親は異なる概念である。父性機能が不足していることと、父親が家庭に不在であることとは一致しない。父親がいなくても父性機能を与えることができるし、父親が家族と多く関わっていても父性機能を与えられない場合もある。伝統的な家族では父親が父性を、そして母親が母性を担っていたが、現代の家庭はかなり様相が異なる。
父性機能が得られない状況は、いくつかのパターンがある。代表的な例を4つほど紹介する。第一に、父性を担うはずの父親が不在の場合である。父親が仕事に忙しいというのは表向きの理由で、その背後には父親自身が子ども時代に自分の父親と関わった経験が希薄だったり、自分の父親に傷つき否定的な父親イメージしか持てず、自分がどう父親の役割を果したらよいのか見当がつかないこともある。関わろうとしないというよりは、どうやって関わったらよいのかわからないというのが本音だ。
第二に、両親の夫婦関係に顕在的あるいは潜在的な葛藤があり、両者が協力して子育てに関われない場合である。厳しく叱りつつ温かく受け入れるというように父性と母性はある意味反対のメッセージを同時に伝えるために両者の相互理解と協力が必要になる。このふたつを担当する夫婦間に葛藤があり十分なコミュニケーションがとれていないと、父性・母性という矛盾した両者を同時に与えることが出来ず、どちらかが撤退を余儀なくされる。母性の勢力の方が強いと父性が撤退し、家庭が母性一色になってしまう。
第三に、父性の表現方法が不適切な場合である。父親は子どものことを心配し、どうにかうまく成長して欲しいと願っている。心配・不安が高じて怒り・攻撃性に転じ、暴力的な父性となることがある。その背景には親自身が自分の親から暴力的に扱われてきたという否定的な記憶を持っていたりする。そのような扱いは絶対繰り返すまいと思っても、親となりいざ子どもに向き合うと自分が受けてきた親からの関わり方の記憶が無意識のうちに再現さてしまう。
第四に、両親とも母性的に関わっている場合である。子どもに明確な限界を設定して「ノー」と言えない。成長できず立ち止まっている子どもを全面的に受け入れるだけで、社会的自我を育成するために傷つけることが怖くてできない。

青年と家族への支援
子ども時代の万能的自我から社会的自我に移行する課題は誰にとっても困難であり、何年もかけて徐々に達成していく。最近は高学歴化・青年のモラトリアム化が進み、大人の年齢に達しているのに、心理的には万能的自我を捨てきれずうまく社会に適応できない青年たちが多くいる。
だれでも本来は成長する力を持っている。青年たちは家族や社会の人々と関わり多くの経験を積む中で成功体験と失敗体験を得ながら自分自身の力で成長してゆく。しかし失敗体験が一定の限界を超えてしまうと自分の力ではどうしようもできず立ち止まってしまう。そうなると家族だけに任せていてもうまくいかない。社会がこのような青年と本人に手を差し伸べ支援していく必要がある。このような青年たちに社会はどう関わり、何が出来るのだろうか。
一言でいえば、社会の中に健全な父性を作っていくことだ。旧来の家制度にあったような専制君主的で暴力的な父性ではない。相手を尊重しつつも健全な権威性を保ち行方を見失った子どもを非暴力的だが確実にしっかりと導き、傷ついた子どもを承認するような父性が現代社会には求められている。それを達成するにはつぎの二つが重要だ。
第一に、本人をとりまくコミュニティーの中に父性を発揮できる斜めの関係をつくる。友人、先輩、学校などの教師、指導者、親戚などとの絆を大切にしたい。第三者がカウンセラー的に関わってもよい。「ひきこもりサポートネット」や「若ナビ」では、傷ついた青年たちの声をしっかりと聴いている。
第二に、社会が家族を支援するという考え方もある。困難さが家族の解決能力を越えてしまっている場合には、社会が家族とつながり家族自体が成長できずもがいている青年をうまく支援できるように、家族に対して外側から社会が支援する。私は家族療法というカウンセリングを通してそのお手伝いをしている。子育てが失敗したと思い込んで自信を失っている家族とよく話し合い、家族に信頼と自信を回復してもらう。そうすれば潜在的に持っていた「家族の力」がよみがえり、家族が躊躇せずしっかり子どもと向き合えるようになる。
(ある雑誌に投稿した原稿です)

0 件のコメント:

コメントを投稿