2012年10月29日月曜日

村上春樹と自分


村上春樹の自分語り本「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでいる。
別に村上春樹が特に好きというわけでもない。はっきりいって彼の存在はどうでもよい。ノーベル賞をとってもとらなくても。
では、なぜ彼の話に興味を持つかというと、結局彼の話に触発され、鏡に映して自分の話を語りたいのだろう。彼の話自体はどうでもよくて、そこから導き出される自分自身の話に耳を傾けようとしている。
  • 書いたものが自分の設定した基準に到達できるかできないかというのが何よりも大事になってくる、、、
私は真逆ですね。自分の成果を計る基準は自分は設定しません。自己評価はあくまで暫定的なものであり、他者の設定した基準が何より大事になってくるかな。その他者って誰かと聞かれても、それは状況によって異なるでしょう。家族か、友人か、クライエントか、世間か、、、
  • 一人でいることをそれほど苦痛としない性格である。毎日一時間か二時間、誰とも口をきかずに一人きりで走っていても、四時間か五時間一人で机に向かって、黙々と文章を書いていても、とくにつらいとも、退屈だとも思わない。そういう傾向は、若いときから一貫して僕の中にあった。誰かと一緒に何かをするよりは、一人で黙って本を読んだり、集中して音楽を聴いていたりする方が好きだった。一人でやることならいくらでも思いつけた。
これも真逆です。ひとりでいることがとても苦痛で、すぐ人を求めてしまいます。人と関わると面倒なことが起きたとしても、ひとりでいるよりはマシかな。1−2時間、誰とも口をきかず自転車で走ったり山を歩くことは苦痛ではなく楽しみです。しかし4−5時間ひとりで机に向かい黙々と文章を書いたり読んだりは苦手中の苦手です。すぐにどこかに行きたくなる。ひとりで部屋に閉じこもるよりは、スタバか図書館か人々の気配がする中で読んだり書いたりする方がかえって集中できたりします。と言いつつ、黙って本を読むことも好きなんですよ、気持ちを集中できれば。でも音楽そのものには集中できません。頭の中にイマジネーションが沸き起こり、別の世界に行ってしまいます。
  • 一人きりになりたいという思いは、常に変わらず僕の中に存在した。だから一日に一時間ばかり走り、そこに自分だけの沈黙の時間を確保することは、僕の精神衛生にとって重要な意味を持つ作業になった。
この辺りは僕も同感です。人の中にいたいという思いが常にあり、海外の学会に出ても、ひとり名所旧跡を回るよりは学会や懇親会で多くの人と交わる方が落ち着きます。だからこそ、その対極にある沈黙の時間、自分だけの時間も大切にしたい。でも、それは敢えて意図して作らないとすぐにウロウロ動き出してしまいます。今、これを書いているのは台北のホテルの部屋。半日フリーの時間が出来たので、サイクリングに飛び出したくなる衝動を敢えて抑えてひとりPCに向かっています。これも自虐的な楽しみがありますね(笑)。
村上春樹と田村毅とどっちが正解かということじゃないんですよ。MBTIで言えば彼はIntrovert Type、つまりエネルギーを自己の身体の内側から得て、私はExtrovert Type、つまりエネルギーを自己の外側である他者との関わりから得るわけです。利き腕が右か左かというほどの違いであって優劣の差はありません。右にしろ左にしろそっちに偏りすぎると不便になるので、利き腕は尊重しつつもバランスをとることが大切です。
  • 走っているときにどんなことを考えるのかと、しばしば質問される。、、、そのような質問をされるたびに、僕は深く考え込んでしまう。、、、正直なところ、自分がこれまで走りながら何を考えてきたのか、ろくすっぽ思い出せない。、、、昔起こった出来事を脈絡なく思い出すこともある。ときどき(そういうことはほんのたまにしか起こらないのだが)、小説のちょっとしたアイデアが頭にふと浮かぶこともある。
自転車で走る楽しみのひとつは、いろんなアイデアが沸き上がってくるからです。これも真逆だな。空想の世界にあちこち飛び回り、突拍子もないアイデアが浮かんできます。特に深いアイデアではなく漠然としています。「あっ、それ原稿に使える!」と思っても、次の別のアイデアが湧いてくると、その前のアイデアを忘れてしまいます。いつも惜しいことをしたと後悔するので、ふたつ以上アイデアが出てきたら自転車を止めてiPhoneにメモします。3つ目が出ると一つ目はほぼ必ず忘れてしまうので。断片の単語でもメモしておけば、後で思い出して再展開できます。
  • 僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。
私はイマジネーションの森の中を走っているかな。
  • 生身の身体を通してしか、手に触ることのできる材料を通してしか、ものごとを正確に認識することのできない人間である。
私は具体的な詳細を正確に認識したとしても、それが正解とはとても思えません。材料は単体では意味を持ちません。それが全体の中でどう位置づけられているのか、具体性の背後にある全体像や関連性を得ることに寄ってはじめてものごとを正確に認識できます。
要するに村上は五感を通した具体的な現実に依拠するSensing Typeで、田村は具体性の背後にある関連性や想像性に依拠するIntuitive Typeなんです。

このように書いているとナルシシストのように思えるかもしれません。そう、こうやって自分の声に耳を傾けること自体が癒しに通じるところもあります。しかし、別に自己愛に浸るために、つまり自分を「良い子、良い子」して自己肯定の幻想に浸りたいわけではない。むしろその逆に自分を切り裂き、余分な幻想を切り落とすことによって、他者と関わる自分の実像に焦点を当てることができます。

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