2012年7月31日火曜日

家族の価値の伝承

今回の愛媛出張は仕事のついでに遊ぶというより、遊びのついでに仕事をするというほど楽しむことができた。なにも享楽的に楽しんだわけではない。自分のルーツを探る旅だ。子ども時代には毎年訪れていた母の実家を久々に再訪し、親戚と昔話がたくさん出てくる。あのいとこはどうした、あのおばさんはどうした、、、、話しているうちに私が家族の価値を受け継ぎ「顔向けできる」メンバーだから、こうやって再訪を楽しめるのだということに気づいた。

家族は生活と安全・安心の場を提供するのみならず「価値」を与える。その価値は家族の無形文化財だ。どこにも明文化されておらず、メンバー各々の心の中に取り込まれ、意図されないまま伝承されていく。私が内面化した家族の価値は次のようだ。

父方・母方の原家族はかなり「しっかり」している。家族の価値がしっかりと受け継がれて行く。その作業はかなり大変で、しっかり受け継ぐことが出来ると安泰だが、うまくいかないと大きな負担となる。母方の家は瀬戸内海に面する小さな町の大きな家だった。先祖代々続き、元はなんとか水軍(瀬戸内海の海賊?)がルーツである。おじさんが記載した美談それを家族のホコリとして伝えて来た。戦前までは豪商でかなり羽振りが良かったと聞く。しかい戦後、農地改革で多くの土地を手放し、家業は没落して行った。しかし、母が生まれ育った頃はまだそれまでの名残で資産もあったのではないだろうか。母の父(私の祖父)はホントは医者になりたかったが家業を継ぐためと戦争体制のために(?)かなわず、渋々受け継いだ家業には熱心にならず、私が夏に帰省すると、いつも朝から晩酌(というか朝酌)している。でもそれは家長の特権として正しいものであり、祖母が甲斐甲斐しく酒と肴の用意をしていた。7人兄弟で息子ひとりに娘が6人。女子の高等教育などいらん時代なのに、おばさんたちを関西や関東の都会の大学に進学させた。そして、上から順番にお嫁に出していく。なにしろ6人もいるのだから年齢順も狂うだろう。順番が逆になること自体が問題となった。祖父の満たされなかった夢を成就するべく6人の婿たちのうち二人が医者、二人が東大卒だ。いとこたちは全部で17人。子ども時代、お盆に帰省してずらっと並んで楽しかった。親についてくるのはせいぜい中学くらいまでだ。でもその後もおばさんたちからあの子はどこそこ大学に受かった、というような情報は確実に流されていた。医者になり、おじいちゃんの夢を果たしたのは私を含めて3人だ。私はこの家の価値を受け継ぐことができたから、原家族を再訪する価値があると自分で勝手に思い込んでいるのだろう。

父の実家は群馬の温泉旅館。今でこそ温泉ブームでガイドブックやパンフレットを飾る有名旅館だけど、祖父は地方の中核都市から辺鄙な山奥に飛ばされ、しっかり経営して仕事に熱心だったわけでなくゴルフばかりやっていた。でも、土地と源泉と従業員を多く抱えた家内企業の社長さん。私のふたりのおじいちゃんたちは、それなりに大きな家の家長としてあくせく働かずに悠々としていた。ふたりとも若い頃戦争を体験している。そのことも関係あるのだろうか。父方も7人きょうだいで、いとこは16人。集まって遊ぶのはやはり楽しい。旅館に泊まり温泉に入れるのもさらに楽しかった。おじいちゃんは若い頃、当時の甲子園大会に出たほどのスポーツマンだったがアカデミックな期待値はそれほど高くなかった。

 家族の価値は親から子へ伝えられていく。期待され、お金をかけ、機会を与えられ、家族の価値にのっとった枠組みに照らし合わせた「幸せ」を願う。今回、原家族を訪ねてその大変さに改めて気づいた。オリンピックを見ても、どこの国、どの時代でも自分の所属する集団(国)が秀でていることは大きな喜びと自信につながる。家族という集団の価値も同様だ。より良くありたいと期待する。スポーツや芸術(音楽や芸能など)を期待するのは限られた家で、多くはより良い職業選択の機会を求めアカデミックな成功を求める。子どもは家族の期待に応え、お前は良い子だと承認を得て自己肯定(=生きる根拠と自信)を獲得していく。 子どもは親の期待を無視することはできない。それを成就するか、成就せずにドロップアウトするかのどちらかだ。いずれにせよそれは家や親という枠組みから受動的に与えられた価値であり、子ども自身が自ら能動的に生み出した価値ではない。若い頃は、家の価値を一旦受け入れるか拒絶することしかできない。その後、自身の葛藤を重ねた末に、やっと自分自身の価値を見出すことができる。それは早くとも30代以降だろう。

家から与えられた価値 vs. 本人自身の価値。

 この構図は必然的に葛藤を生む。ガチンコ対決の親子間、拡大家族間の争議であったり、子ども側の問題(反社会的・非社会的逸脱行動)であったりする。それは、家族にとって「良くない」とされる行動・状態である。
 私の場合は楽だった。父は二男、母は四女。それぞれ地方の大家族から離脱して、東京に新たな核家族をつくった。私にとっては親の価値こそ健在だったが祖父母時代から伝わってくる「しっかりした」価値からは切り離されていた。 でも、本家では結構たいへんなんだと今回改めて感じた。本家・分家なんて時代錯誤な! 家制度は崩壊しても、世代間で価値を伝えていく伝統はまだまだ残っている。上の世代からやってくる家族的価値と、自分自身が個人として見出す価値との闘いはそう簡単なものではない。個別の価値はシステムによって承認され、初めて正当化される。家の価値、前世代の価値を受け取るなり拒絶することは容易い。しかしそこから自身の価値を見出し、他者からの承認を得ることは難しい。この葛藤を解決できずに立ち止まり、にっちもさっちもいかなくなってしまった青年たちをたくさん知っている。

家族の価値は、日常の何気なく繰り返されるフレーズの中に埋め込まれている。私が子どもの頃、父親から受け取ったフレーズは「学部時代より、大学院時代にホントの勉強ができるんだよなあ。」つまり大学院まで進学することと勉強という価値が無条件に伝えられた。そして、その頃になると「教授クラスになると忙しくて良い研究はできない。若い助手・講師クラスが一番良い研究ができるんだ。」それは父親自身の体験を振り返ったものであり、何も子どもに伝えようとしたことではないのだろう。価値は意図せず発せられ、受け取る側が多くの日常会話の中から選択して勝手に取り込むのだろう。 私自身がどんな価値を子どもたちに伝えているのかわからない。自分では伝えていないつもりなのだが、きっと子どもたちは何かを受け取っているに違いない。 私は大学院に進学し、大学教授になり、親から勝手に受け取った価値を成就し、承認されたと思っている。大学教授として、医者として、社会からも承認されたと思っている。そういう意味で、期待を引き受けるだけの個人的な素質と、承認してくれる家族という資源を持てたことはホントにラッキーだったと感じている。
 公務員であった父にとって、教授を中途退職して開業するという価値はなかった。これは、家の価値から逸脱した私自身の価値だと言えなくもない。しかし世代をさかのぼれば母方祖父の「医者になる」という価値のワク内であるし、双方の実家の家業経営者ではあるし、結局は大きな家族の価値を抜け出すことはできないし、そうだからこそ幸せを感じることができているのかもしれない。


 先日は突然おじゃまさせていただき、美味しい地元のご馳走をありがとうございました。子ども時代の思い出話に大変懐かしく感じました。酔いにまかせて失礼なことを申し上げたのではと心配しております。

 どこの家でも親は次の世代に価値を伝えようと一生懸命ですね。子ども世代はそれを干渉と感じつつも親の承認を得たいと願います。しかし家族の価値を下地にして、本当の自分の価値を見出すためには多くの経験を積み試行錯誤した末、30代、40代になってからやっと獲得できるものなのかもしれません。
 月曜日は伯方島から尾道まで3時間でした。しまなみ海道は最高のサイクリング道ですね。また機会があれば訪れたいと思います。それでは、季節がらトレーニングのやり過ぎに注意して、お体にご自愛ください。

2012年7月28日土曜日

いじめ自殺

大津市の中学生の自殺が問題になっています。
子どもの自殺=いじめが原因=学校の問題=教育体制の問題
精神科医としては問題がだんだんすり替えられていくようでとても残念です。
何が問題であるかと追求してもしかたありません。
「みんな問題がなくてマトモにちゃんとしている」という前提自体がおかしいんです。
・子どもの不幸な事件➡学校の問題
・電車の大惨事➡鉄道会社の問題
・震災と原発事故➡電力会社の問題
そりゃあ問題ですよ。今まで見えていなかった問題がたくさん露呈するから問題満載のように見えるけど、だれだってみんな問題だらけなんです。
問題の矛先が一点に集中し叩けばいくらでもホコリは出てきます。その結果、他のところの問題は自然と見過ごされてしまうことが怖いです。
今回の大津市の自殺問題について私はマスコミ報道を詳しくフォローしていないし、たとえフォローしたところで真相はわからないのですが、今までに子どもの自殺を何例か身近に経験してきました。いずれも「いじめ」が焦点になりますが、問題の構造はそんなに単純ではありません。その子自身にも問題はあるし、家庭にも問題があります。でも、子どもは亡くなってしまい調べられません。家族は悲嘆の最中で、とても家族に問題があったかもなんてことは言えません。ふつうでも家族の事情はプライバシーのヴェールに隠されて内情は見えないのに、「被害家族」に対しては同情と擁護こそすれ、その中身についてとやかくいうことは禁忌となってしまします。結局はいじめがあったかもしれない、いやあったはずだ、、、と真相が曖昧のままどんどん話が進んでいってしまいます。
私が過去に関わった自殺ケースでは、家族の中にいじめの構図がありました。いわゆる虐待です。でもそのことは深く掘り下げられず、学校のいじめを問題にして、保護者も学校も疲弊していきました。
「みんな問題があって弱さを抱えているのがふつう」というように前提を転換することが大切だと思います。そうすれば問題があることを恥じることなく、誰もが弱い部分を認めて援助を求めやすくなるでしょう。本当の強さは「私は強いです、問題なんかありません」と主張することではなく、自分の弱い部分を認めて人に伝えられることと私は考えています。

2012年7月19日木曜日

ひきこもりの家族療法

質問) 「ひきこもりの家族療法」って何をするのですか?

 ひとことで言えば、安心して成長・自立できる文脈を創り出すことです。
 本来、子どもは成長する力、つまり万能的自我から決別し、社会的自我を獲得する力を持っています。それは、居心地が良かったウチの世界をあきらめ、傷つくかもしれない、不安がいっぱいのソトの世界に飛び出そうとする勇気と自信です。思春期の子どもたちは、何気なくこのプロセスを通過しているけど、ホントは相当な勇気が必要です。 心の元気が必要です。元気になれる文脈を提供するのがカウンセリングです。


<不安の法則-その1>不安な気持ち・安心な気持ちは身近な人の間で伝播する

人は誰でも生きる不安を抱えています。不安とは、実態がよくわからない、漠然とした曖昧な感覚です。しかし不思議なことに、ある人が不安を抱えていると、中身がよくわからなくても、身近な別の人(親子や夫婦)に伝わり、その人もなんだかよくわからないけど不安になります。その逆に、ある人が安心していると、相手も何だかよくわからないけど安心してしまいます。

子どもが元気にウチの世界から飛び出してゆくためには、ウチの世界(家族)の人が元気でいることが大切です。そうすれば、子どももなぜか勇気を獲得できます。


 どうやったら家族は元気になれるのでしょうか。 家族も自然にしていれば本来の元気力を発揮できます。しかし、長年生活していれば、どうしても不安のオリがたまってきます。そのオリを見つけ出し、取り除いてあげることが家族療法です。 親がさまざまな不安から解放され、元気を回復すれば、自然に親子の距離が離れ、それまで子どもを保護していた親の囲いを安心して解き放すことができます。不安と緊張で縮こまっている子育てから、のびのび安心子育てに180°転換できます。


では、その不安とはどこから来るのでしょうか。それは巧みに隠されていて、なかなか見つけにくいものです。

  • 子どもの成長を見過ごしている場合です。普段、子どもと心理的な至近距離にいると、子どもの心が成長し、自立の兆しが芽生えていることを見過ごしてしまいます。すると、それまで子どもが幼かった頃の習慣のままに、子どものことをたくさん心配してきちんと関わり、子どもの安全を確保してあげようと一生懸命になります。子どもが幼い頃は、親は子どもをきちんと保護しないといけませんが、思春期になるとそれは却って邪魔になり子どもの自立を阻害してしまいます。このようなときは私から、「いえ、もう大丈夫ですよ。大人として扱っていいんですよ。」と安心材料を提供する(許可を与える)ことで、不安感から解放されます。
  • ひとりっきりで子どもの成長を見守り、しつけや教育の責任を果たしている場合です。自分だけが子どもに関わっているという孤立状況では、なかなか不安から解放されません。サポートが必要です。夫婦がどう協力して子どもに関わることができるか、あるいはカウンセラーや学校の先生などが第三者としてどう子どもに関わることができるか模索します。ひとりっきりではないのだと安心できると、それまでの不安感を荷卸しできます。
  • 親としての自責の念が不安感を強めてしまいます。親は子どもの健やかな成長を保証してあげなくてはなりません。それはそうなんです。子どもが傷つかないように親が責任を持って守らなければなりません。但し、それは思春期の前までです。思春期に入り、自立しはじめたら、徐々に責任の所在を親から子ども自身に移行していきます。一気に親が責任を放棄するわけではありませんが、徐々に手綱を緩めていきます。子どもの辛さや傷つきにもっと早く気づいてやればよかった、親としてできることがあったはずなのに、ちゃんとしてあげられなかった、、、、その気持ちは、未だに子どもの失敗の責任を親が引き受けようとしていることを表しています。そんなに自分を責めないでください。親が責任をとってしまったら、子どもは自分で責任をとれません。困難に直面し、どうにかしなくちゃと試行錯誤する責任を、親から子どもに譲渡しましょう。そうすれば、親は自責の不安から解放され、子どもが試行錯誤して苦労できるようになります。苦労は成長のためのスパイスです。
  • 高い教育期待を掲げる場合です。親や親族など優秀な家系に見られる現象です。思春期はそれまでの万能的自我(100%の世界)から社会的自我(60-70%の世界)折り合う道を見つけようとする時期です。しかし高い期待が維持されると、子どもはそれに応えようと100%どころか120%を目指します。それが成就されると大きな自信を獲得し大人になることができますが、残念ながら成就できない場合は、まわりの期待を調整してあげないと子どもはいつまでも60-70%にダウンサイズできず、「100%が果たせなければ0%しかない」という二分法から決別できません。通常、教育期待は無意識的な雰囲気として家族の中に漂っていますから、そう言われても親としてよくわかりません。そのあたりを家族でよく話し合うことで、親も子も不安感から解放されます。
 以上は、子どもにまつわる不安感です。これらはまだわかりやすい方で、実際にはもっと入り組んだ不安もあります。

<不安の法則-その2>不安感は易きに流れる。 人はたくさんの不安を抱えています。でも、そのことを想起すること自体が不安です。だから不安の存在を自分自身でも隠し、目の前にあるわかりやすい不安に流れていきます。親にとって、最もわかりやすい不安は子どもがちゃんと成長してくれるかという不安です。親が隠れた不安を抱えていると、それが地下水脈を伝わって、一番身近にいる大切な対象(子ども)に投影されます。

 そういう時に親自身の心配を尋ねても、「子どものことだけが心配」で、他の心配なんてありませんと言います。自分自身にも隠しているからです。このような時に「子どもの心配」を取り除くために「子どもは心配しなくても大丈夫」と私から言っても全然ダメです。まず地下水脈をどうにかしなくてはなりません。それは子どもとは全く関係ないところに存在しています。よく遭遇するのが、
  • 親自身の子ども時代の辛かった体験
  • 過去の失敗体験
  • 自分の親との未解決の葛藤
  • 夫婦間の越えがたいわだかまり
 などが長年にわたり、どうしようもなく横たわっています。 なにも、これらをクリアする必要はありません。人生、さまざまな困難があって当然です。ただ、大切なことはそこから目を逸らすのではなく、問題は問題としてちゃんと向き合うことです。そうすれば地下水脈の連結が外れて、別の不安が子どもへの不安として投影されず、元気に子どもに向き合うことができます。
 長年維持してきた地下水脈は生きるために仕方なく掘り進めた方策です。それを、自分だけで整理することはまず不可能です。他者の力がどうしても必要です。生きていく苦しさはそう簡単に解決できません。いや、解決する必要はありません。解決されなくともそのことを認知し、信頼でき絶対裏切らない他者に客観的に語ることが大切です。そうすれば、その問題を抱えているために発生するnegativeな気持ち(たとえば恥、罪の気持ち、怒り、自分を責めてしまう、自分がダメと思い込む、自信がなくなる、不安で元気がない)から解放されます。抱えている問題自体はどうしようもなく困ったnegativeなことのまま変わりませんが、それを抱えている自分自身を肯定して、自信を回復します。 問題を抱えたままでも家族が元気になれば、その元気が思春期の子どもにも伝わり、ウチの世界から飛び出し、不安なソトの世界に飛び込む勇気を獲得できます。そして、いつのまにか自然にひきこもりなどの問題が氷解してゆきます。

 ひきこもりの家族療法とは、本人も家族も、安心して「ひきこもり」という困難な課題を乗り越える元気を取り戻すことです。

2012年7月18日水曜日

夏本番

梅雨明けの暑さはまたひとしおに感じられますが、いかがお過ごしでしょうか。

いや、実はこの暑さは大好きなんです。
ギラギラと照り付く太陽。ぼやぼやしていると熱中症で倒れそうな、夏バテ対策をしっかりしないと熱消耗で食欲も意欲もなくなってしまうような、居ても立ってもいられない季節。学生時代のアメフト部ではスポーツ医学の本で熱中症(heat stroke)と熱消耗(heat exhaustion)の違いを勉強して運動中の事故を予防しました。
灼熱から逃げず、自転車で突っ込み、身体のエネルギーで暑さのエネルギーに対抗する感覚は良いなあ。風を切るので傍から見るほど無謀ではありません。焼けたアスファルトの上を歩くよりよっぽど楽ですよ。

ウェブサイトのトップ絵を夏バージョンに入れ替えました。
ギラギラ太陽の原体験(ノスタルジー)。
  • 小学生時代、母の実家(四国)に帰省し、大勢のいとこたちと行った海水浴。
  • 高校時代の夏山縦走。一週間も山の天候が安定するのは夏だけ。日差しは強くても、3000m級の稜線はひんやり涼しい。
  • 大学時代のウインドサーフィン。でかいボードを車にくくりつけて、霞ヶ浦や湘南海岸によく行きました。

I get knocked, down but I get up again
You're never gonna keep me down
Tubthumping by Chumbawamba.

むしろ、夏の後半に暑さが和らぎ、秋が忍び寄る感覚の方が寂しいかな。(ホッとするけど)

2012年7月11日水曜日

光と影の視点


今まではどこに相談に行っても、誰に相談しても、不安な気持ちが募るばかりで出口のない道をさまよっていた感じでした。

医療は基本的に問題志向(マイナス志向)です。
早期発見、早期治療。見落としてしまいがちな病気・障害をなるべく早く見つけ出し、それを「治療」するのが使命です。
能天気に「大丈夫でしょう」(プラス志向)と言って患者さんを安心させておいて、後で病気が見つかったらやぶ医者です。

多くの精神科医とカウンセラーに欠けているのは関係性の視点光と影の視点です。

光と影の視点とは?
影を見ると意気消沈し、不安が募り、守りの態勢に入ります。
光を見ると元気になり、前向きに生きていく自信と勇気が出ます。
思春期はウチの世界からソトの世界へゆっくり移行する時期ということはすでにブログに書きました(2012.6.28)。だれにとってもウチの世界からソトの世界に巣立つことは大変な作業です。自分はできるかもしれないという自信と、飛び込んでいく勇気が必要です。

多くの医者やカウンセラーは影に焦点を合わせます。
・なにかの病気や障害かも...
・性格に問題があるかも...
・学校に問題があるかも...
・家族に問題があるかも。親の関わり方に問題があるかも...
これらの影に焦点を当てると、親の影の部分が起動されます。不安が募り、守りの態勢に入ります。危険を回避するために子どもをウチの世界に囲い込みます。

関係性の視点とは?
親密で、日常を共にする関係性では、口に出さなくとも気持ちがお互いに伝わります。
不安な気持ち(あるいは安心な気持ちも)は家族内で伝播します。
子どもが不安になると親も不安になり、親が不安になると子も不安になる。
妻が不安になると夫も不安になり、夫が不安になると妻も不安になります。
不安の中では子どもはソトの世界に飛び出せません。
不安な気持ちが増殖すると、家族全体が不安感に巻き込まれます。いろいろな症状や問題行動が出現して、人との関係が崩れ、ますます問題と心配が増えてゆきます。

影に焦点を当てる精神科医(日本によくあるタイプ)は病気や障害ではないだろうかと一生懸命診断します。
時間がないので、とりあえず症状にあった薬(入眠剤とか安定剤)を処方します。
ホントに影かどうかよくわからなくても、見落としを避けるために「〇〇病の疑い」があって、将来病気に発展するかもしれないからとりあえずお薬を処方します。
影ではなく白だったら、「あなたは病気じゃないから来る必要はない」と言います。

影に焦点を当てるカウンセラーは、心の影を一生懸命探し出します。
子ども自身に対しても、親に対しても。
昔、辛かった体験が隠されていないか。自分の親との関係がまだ整理されていないか。今の夫婦関係や家族関係にストレスを抱えていないか。
確かにそういう心の影が隠されていると、意識せずとも不安な気持ちが増え、家族に関わるときも守りの態勢に入ります。
それに、そういう話は痛い部分なのであまり言いたくないし、今直面している子どもの問題と別の話題なので、あまり話したくありません。
「いえいえ、そういうことが大切なのですよ。」
カウンセラーはそうやって丁寧に影の部分を探し出します。
そりゃあ、だれでもありますよね。長い間生きていればさまざまな影の体験が掘り出されてきます。
それを整理して、心が軽くなり、その元気が家族に波及して問題が自然と解決していく場合もあります。
しかし、精神病や障害も見つからず、心の影を整理してもなかなか元気にならない場合が多くあります。思春期の臨床ではこちらの方が多いです。
すると良くあるパターンは、医者から処方された薬を飲み続けているだけ、カウンセラーからずっと話を聞いてもらっているだけということになってしまいます。

影ばかりでなく、光に焦点を合わせることが大切です。
どうやって思春期を乗り越えていくための光を蓄えることができるか。
どうやって家族全体が元気に関わり合うことができる光を蓄えることができるか。
このように光に焦点を合わせる姿勢がレジリエンス(Resilience、困難さを跳ね返す力)といって最近注目されています。

カウンセリング・講座・ブログ

田村先生を訪ねてから、カウンセリング、講座、ブログを通して、自分に当てはまる色々なことが見えてきて、その一つ一つがストンと納得できています。

ありがとうございます。
  • カウンセリングでは深くお話を伺い、具体的にどうしたらよいかご一緒に考えることができます。
  • 講座(思春期の~、夫婦の~、男性の~)では、同じ立場の方々が相互に情報交換できます。自分だけと思っていたことが案外みんなに共通していたり、お互いの話の中からヒントが得られたりします。私からより一般的なお話をしますので、ご自身の体験を離れた位置から客観的に振り返ることができると思います。
  • ブログは私がクライエントの方々と接する中で思いついたことを書いています。読者のみなさんからフィードバックをいただけると、それをまた深めてブログに反映したいと思います。
この3つ、ひとつひとつでも良いですし、3つを重ねていただけると効果が高いと思います。

2012年7月3日火曜日

男性性とは?


「支援者向け研究会」「夫婦エンパワーメント~」「思春期子育て~」など何本か定例のセミナーをやっているが、「男のメンタルトレーニング」が一番みなさんの注目をひき、いろいろなところでよく質問される。それも男性からばかりでなく、女性からの関心が高い。
それにも関わらず、今のところ一番参加者が少ない。

男性性とは?
女性性と比較するとよく理解できる。男女を問わず、人はだれでも強さと弱さを持ち合わせている。そのどちらを指向するか男女で異なる。

女性のキーワード=「弱さ」
男性より体格も腕力も弱いという事実から、関係性の中の弱さ、そして家庭や社会という仕組みの中の弱さ、subordinate position を余儀なくされた。
弱くても良い。弱者であることの利得がある。弱いゆえに人を必要とする。他者との関係性を築くことが女性の得意技だ。泣いたり、弱音を吐いたり、だれかに相談したり。弱さは、思わず守ってあげなくちゃ。かわいさにつながり、強い男性を引き寄せる。
セラピーは自分の弱さをさらけ出し、言葉を使い(おしゃべり)、感情を用い(泣いたり、わめいたり)、他者に依存して庇護してもらう。サイコセラピーは女性性に親和的である。
女性性に注目したセラピー(Feminist therapy)とは弱者である女性の立場に注目し、弱者に押し留めている社会構造を告発し、女性たちをエンパワーして弱さから強さへの変革を支援する。
女性へのセラピーのキーワードは言葉、関係性、感情表出、カタルシスなど。

男性のキーワード=「強さ」
強いことが男性のアイデンティティである。
なぜ強さに固執するのか⇒強くないと生きていけない。種が滅んでしまう。種を守り、生きながらえるためには外敵から守る強さが必要。
弱い男はno good。生きている価値がない。
どういうのが弱いの?
弱音を吐く。感情を表す(泣くとか)。自分が弱いということをまわりの人に知らせちゃう人。

男の鎧
ホントに強くて、何も迷うことなく普通にしていても強い人もいるでしょう。半分くらいの人はそれで良いのかもしれない。でも、あと半分くらいの人はそういうわけにはいかない。強さもあるけど、弱さも持ち合わせている。
すると、鎧を着る。ホントの内面のナイーブさをカバーアップするために、「俺は強いんだぞ!」と証明できる盾をせっせと作る。
それが見せかけの「強さ」=能力、学力、学歴、体力、腕力、精神力、経済力、コミュニケーション能力、語学力、説得力、計算能力、思考能力、努力(がんばる力)、包容力、判断力、などなど
しかしその下にナイーブな内面を持つ。

だから、鎧を着れば良いじゃない!
だれでも弱いところもあるんだから、鎧を着て、人生80年もてばいいじゃない。そこまで突き詰めて考えなくても。
鎧がなくても強い人はOK。
鎧を着て、強く見せられている人もOK。
鎧をつけてもまだ弱さがあふれてくる時が問題だ。その場合、鎧をメンテナンスしなければならない。

人間の光と影
光とは肯定的な体験。たとえば喜び、前に向く力、意欲、希望、自信、肯定する力、どうだかわからない不安な状況でも思い切って前に進む勇気(海への飛び込みみたいな)

影とは何か?
それを自分で理解していれば、この先を読む必要もないかもしれない。
自分で理解できないからこそ、それが「影」なのである。
隠している。人には絶対に見せない。自分自身も見ない、つまり意識下に抑圧している。
影とは否定的な感情体験 (negative experience)、自信を奪う体験、過去や現在の体験からくる悲しみ、怒り、そして未来への不安や恐れ。
悲しみ、不安、恐れ、怒りとは?
「悲しみ」とは大切なものを失った状態
「恐れ」とは大切なものを失うことに対する明確な予測
「不安」とは大切なものを失うかもしれないあいまいな予期
「怒り」だけはちょっと種類が異なる。悲しみ・不安・恐れなどを覆い隠すための防衛反応。
悲しみ・不安・恐れは一般に「弱い感情、女々しい感情」として男性には許されなかった。
唯一、世間的に(男性のコードとして)許されているのが攻撃性。
男性の(女性も)怒りの影には悲しみ・恐れ・不安が必ずある。それをカバーアップするために怒っている。
怒り、攻撃性とは激しくエネルギーが発露して相手を威圧する。まわりからみるとそれは一見強そうに見えるけど、本当は弱さの防衛である。

鎧のことは人にも言わないし、自分自身でも語らない、考えない、言わない、表象に上げない。その部分が見えてくると、心情的に痛い、苦しい。そして自分がダメな人間になってしまう。生きる意味を失う。まわりからダメな人間と思われるのが怖い。せっかく作ってきた自分というカタチを壊すつもりなのか!!
長い間人生をやっていると、光と共に影の部分がたまってくる。それを鎧の下に隠してどうにか取り繕いつじつまを合わせている。
人生の影に合わせて鎧もどんどん厚くしていかねばならない。すると人生がガチガチになり、思うとおりに動けなくなる。次のような具体的な弊害が現れる。

うつ:
影の気持ちを扱うことは辛すぎて日常生活がうまくまわらなくなるから、それを押さえ込もうとする。否定的な部分だけを特異的におさえることが出来れば良いのだが、健全な部分まで巻き込んで押さえ込まれてしまう。ちょうどがんの治療と似ている。がん細胞だけを特異的に叩くことができればよいのだが、そううまくはいかず、健康な細胞も叩いてしまう。それがガン治療の副作用。感情を押さえ込むメカニズムも同様だ。影の部分を必死に押さえ込もうとすると、表の部分まで押さえ込まれてしまう。つまり、日常生活をきりもりするために必要な意欲、やる気、食欲、性欲、睡眠欲などまで巻沿いを食う。そのために、やる気がなくなり、食欲や性欲が減退して、仕事や勉強、家事などするべきことができなくなってしまう。

攻撃性:
ささいなことで怒ったり、怒りっぽくなったり。しまいには自分でもコントロールできなくなって他人に怒りをまき散らす。そのために、周りの人、家族とか同僚、仲間に攻撃性が向けられ、人間関係が崩壊してしまう。

性的逸脱:
セクハラ、異常性欲など。その根底には孤独がある。寂しさをカバーするために許容されない形で達成しようとするのが逸脱行為。Sexualityとは究極の親密性。人間の存在の深い孤独を癒してくれる。性的な親密性は、健康な大人には必要不可欠だ。特に男性にとって。子ども時代は親が無条件の愛によってカバーしてくれる。子どもから成長して大人になるためには、親ではない第三者との間に親密性を築くことが重要だ。安全で許容された親密性(sexual partner)が得られない時、逸脱した偽りの親密性を無軌道に得ようとする。

アルコール・薬物依存:
アルコールは感情を麻痺させる効果がある。辛いことを忘れさせる。ヨロイの下の弱さ・否定的な感情がどんどん大きくなり、ヨロイではカバーできなくなると、それを封印するためにアルコールや薬物が使われる。それは社交を楽しむための酒ではなく、心の痛みを麻痺させるための酒や薬だ。
人はリラックスするために酒を使う。酒を入れて、ふだんの緊張や体面を取り除き、本音を語る。一生懸命にがんばっているヨロイを麻痺させる。饒舌になり、普段抑圧している自分の感情を解き放すことが出来る。軽い量であればふだんの抑制がはずれ社交的になり、普段のストレスを軽減する作用がある。しかし、アルコールはヨロイばかりでなく、ヨロイの下の影の部分も麻痺させる。嫌なこと、忘れたいことがあると、深酒をして忘れようとする。つまり、ヨロイという弱さの防御壁を強化する作用となる。そして、依存症を引き起こし、人間関係を破滅に追い込み、仕事ができなくなって社会生活と家庭生活が滅びる。

仕事中毒:
仕事は生産性に繋がるから、一見良いことのように見える。高度経済成長時代はまさに好ましい姿であった。しかし、心理学的に見ればそれも逸脱の一種。仕事に熱中することにより、仕事以外に大切なはずの部分から目をそらすことが出来る。たとえば家庭生活に困難さや痛みを抱えているとき、仕事をしているという名目で、家族から逃げる。そのために、生産性のためではなく、逃げるために過剰に仕事に没頭する。

夫婦葛藤:
パートナーシップは最も親密な関係性であり、お互いにたくさんのことを求め合う。影の部分を相手に投影する、お互いにそれをやってしまうと、どうしようもなくなる。

親子関係:
母親の場合、自分の痛みを最も近い存在である子どもに投影すると密着して傷つけあう。男性は子どもとそれほど近くはない。親・自分・子どもという三世代の世代間連鎖で考えた方がわかりやすい。自分の親との未解決の葛藤、特に怒りが解決されないでいると、その感情が今度は自分が親役割を果たすときに自分の子どもに対して投影されてしまう。つまり、自分の親に向けられるはずの気持ちが、自分の子どもに向けられてしまう。結果的に子どもへの関わりがうまくいかなくなる。父親の場合、多いのが怒りと関係性の遮断。不安が投影される場合、母親は過保護・過干渉になりやすく、父親は子どもに対する不安が怒りや過度の叱責という形で現れる。

いったい影の部分にはどんな感情が隠されているのか?
多いパターンが親に対する未解決な思い。葛藤、まだ満たされぬ愛着、うらみ、親から傷つけられた体験、ちゃんと親が親としての役割を果たしてくれなかった怒りなど。
喪失の悲しみ。自分が失ったものに対する気持ちを隠している。
劣等感。自分は劣っているのだという気持ち。引け目。自分の家族に対して。自分自身に対して。足が短いとか、能力に欠けるとか、家族にタブーの人がいるとか。恥の部分。

仮の男性性(強さ)は鎧のスペック。立派な鎧を作り上げ、人生を謳歌する。
真の男性性(強さ)は鎧(力)を脱ぎ去り、裸の状態でも光(喜び、前に向く力、意欲、希望、自信、肯定する力)を保持できる。

どうしてそれが役に立つの?
「弱い、恥ずかしい、いやな」部分を認知するということは、そこに肯定的な意味づけを与える。
弱さは弱さとして、自分自身でそれを受け入れ認める。すると、それは否定的な体験・感情であることには変わりはないが、それを持っていることの意味づけが異なってくる。
影は影でありつづけると同時に、影ではなくなる。隠しておかねばならない影から、隠す必要のない影にバージョンアップされる。弱みが強みに変換される。
弱さを持っていることが劣っているわけではない。それを自分で投げ出して人にやってもらうわけではない。自分で請け負わなければならない。
それができるようになれば、弱さは弱さでありながら、隠したり恥じる必要がなくなってくる。自分はこれで良いのだという自信を回復できる。病理的な部分(身体・心理・行動的な異常、自傷他害など有害な行動、逸脱行動)まで肯定してはいけない。ダメなことは絶対ダメ、やめなければ、コントロールしなければということを理解しつつ、前に向く勇気、エネルギーが出てくる。今までできなかったことができるようになってくる。人と向き合い、自信を回復し、肯定的な自己像、肯定的な生活ができる。人生をフルに楽しめるようになる。

ジェンダーにこだわるセラピー


ジェンダーにこだわるセラピー (Gender sensitive psychotherapy) というのが私の専門分野のひとつです。
もともとは、feminist therapy、つまり女性性にこだわるセラピーでした。
女性外来って結構あるでしょ。
女性という特性(ジェンダー)に注目して問題を解決する。
もちろん、婦人科とかもともと女性のためのものもあったし、女性ならではの病気、症状なんてのもあるし、女性の先生・スタッフの方が良いし。
そういう意味では、カウンセリングって、女性外来みたいなものなんです。
クライエントもカウンセラーも女性の方が多い。
思春期外来だって、女性(母親)が付き添ってくる場合が多い。最近は男性(父親)も来るようにはなってきたけどまだ少ないですね。

男性カウンセラーは割と少数派。精神科医(お医者)は男性の方が多いですけど。
私が男性ですから、男性のためのカウンセリングの場も提供したい。

精神科の女性外来は、フェミニスト・カウンセリングといって、結構昔から一部では盛んになされています。女性であることによって引き起こされる心の問題。たとえば、暴力やレイプ被害。家庭の中、職場の中、社会の中で、女性であるということから劣位におかれ、そのことが女性自身の心の健康を妨げている場合です。
ふつうだったら、「女性だから」ということはそれほど注目せずに問題を理解して、治療しようとするのですけど、フェミニスト・カウンセリングは、その部分を特に注目して、ジェンダーという縛りを解放することによって、女性の心の健康を回復していこうとします。女性の気持ちや体験を共感的に理解するためにはカウンセラーも女性である方が有利です。だから、フェミニストのカウンセラーはほとんど女性です。男性のフェミニスト・カウンセラーも少数ながらいますよ。フェミニストというのは女性の立場に敏感であるという意味だから、別に自分が女性であるということが必要条件ではないのですが、実際は女性の方が圧倒的に多いです。その方がやりやすいし。

Then, what about men?
じゃあ、男性はどうなんでしょう?男性も、男性であるというジェンダーの縛りによって、男性の心の健康が影響されてはいないんですか?そんな視点も、フェミニズムに付随して欧米では1980年代から、日本では1990年代から少しずつ表れてきました。
それ以前の社会では「男性のための・・・」ということはほとんど考えられませんでした。だって、男性であることは世の中のdefaultですから、あえて取り上げる必要もありません。女性は劣位に置かれているからいろいろケアしなければという発想もわきますが、男性優位社会の中ではあまり男性に特化して考えることはなく、人々すべてのことを考える=男性のことを考えるという図式でした。

でも、バブルが崩壊し、高度経済成長、男性優位社会みたいな言われ方が崩れ始めてから、ひょっとして、男性も劣位に置かれることがあるんじゃないだろうか。そんなことに気づき始めました。

それはどういうことかというと、たとえば、
気持ちを表せない。
武士は食わねど、、、、
男の子は泣いてはいけません。
だから、自分の気持ちを表現できません。negativeな気持ちを表現したら、それは「女々しい」と言われて禁じられてきました。女性が泣いても、可愛いいとか、守ってあげなくちゃとか、結構肯定的に見られることもあります。泣く、弱みを見せるということは、心の健康を回復するためにとても大切なことなんです。そうやって、感情を表出したり、他者に支援を求めることで問題を解決できます。だから、カウンセリングも感情表出を扱いますから、女性の得意分野で、男性は来たがりません。

社会の中で、女性は弱者です。
家族の中で、男性は弱者です。
自分の父親が不在だった。だから、父親としてどうふるまっていいかわからない。
家庭内の役割が規定されていない。だからどう家庭人としてふるまっていいかわからない。
(会社の役割は決められているけど、、、、)

Gender sensitive therapy for menというのは、強さへの強迫的な固執とそれを達成するために作ってきた鎧について自分で理解する。強さから弱さへの変革。鎧の下に隠してあった自分の弱さを知る、表現する。弱さも見せ、それも包括した総合的なホントの強さへ変革していく支援です。
男性の治療的指向は、理性(理屈)、合理性・科学性、説明、言葉よりも具体的なモノを求める。理屈で理解する。気持ちはどうでもよい、というか感情を扱えない。

従来のうつ病の治療は生物学的な治療。薬を使う。脳科学に還元する。
本当にそれで良いのだろうか?科学的な根拠を見出し、薬を飲むこと、脳の代謝を何らかの方法で賦活することで解決しようとする。それを否定する訳ではない。でも、本当はそれ以外の方法を避けているのではないだろうか。
うつは、生物学的な見方ではなく、これまでの人生体験の中にその原因が周到に埋め込まれている。それを見たくないがために、脳科学にすり替えてはいないだろうか。そうすれば、自分の人生経験に責任を負わずに済むのだから。

本当の自分を見つめることが、うつ病の回復につながる。
本当に健全な、真実としての男性性とは何か?
ふつうに考えれば、長年努力して来た鎧(力)の強さを男性性としてとらえられているだろう。
しかし、私は違うように考える。
本当の力は、ヨロイにあるのではなく、ヨロイの下に隠された弱さに向き合える力
自分は強い、と信じているうちは、本当は強くない。
自分の弱さを認め受け入れることが、本当の強さである。

長年かけてせっかく築いて来たヨロイを脱ぎ捨てるわけではない。行きていくために必要な武器だから大切にする。
しかし、安全な環境で、一時的に脱いで裸になり、裸の自分の姿を鏡に映してみる。ふだんは隠している弱い部分だから、鏡に映った姿の醜さに卒倒する。それに耐え、醜さを見つめることができるのが、人間としての本当の強さである。
自分のヨロイを捨てる訳ではない。自分のヨロイを相対化(客観視)する。
ヨロイの下に周到に隠してあった影の部分に安全な光を当て風通しを良くする。
今まで見過ごしてきた、隠してきた自分の弱さを表現する。他者に伝え、自分自身でそれを認知する。
そのためには自分自身で点検するしかない。でもひとりだけでは荷が重すぎる。そのプロセスを信頼できる他者に見守ってもらい、証人になってもらう。そういう姿を他者に受け入れてもらう。

どうやってその作業を行うのか?
ひとりでは困難である。そのプロセスを他者に承認されることが必要だ。
信頼できる他者のもとで、自分のヨロイを一時的に手放し、その下の姿を確認する。それをやっているプロセスを、見守ってもらうこと。
このような作業ができるために必要なことは、安全な他者の存在。信頼できる、この人なら大丈夫だと肯定的に評価できる他者。秘密が守られ外には漏れない。表出した弱さの部分を批判・評価せず、そのまま受け止めてくれるはずという確信。

なぜ、男性治療者なのか?
本当にわかりあえる。
男性性のアイデンティティを獲得するためには、健全な男性モデルが必要となる。
男の人生の中で、男同士は傷つけ合う機会が多い。
自分の父親から、仲間から、先輩から、上司から。
男性同士で向き合うことが出来ない。男性同士、親密に心を開くことが出来ない。男性に向き合えない。
男性恐怖症というのは、ふつう女性が抱くものであったりする。男性からトラウマを受けているから。
しかし、同性である男性も、男性恐怖症はけっこうある。男同士がうまく関わることが出来ない。
それを乗り越えると、真の男性性を獲得することが出来る。
セクシュアリティは、男性の孤独・親密性の希求に関わる最もコアな部分であり、最も恥ずかしい部分である。それを安全に開示して、語れることが大切だ。それを女性に安全に語ることはまず不可能である。なぜなら性を女性に語ることはとても恥ずかしくて出来ない。もし無理に開示しようとすれば性の語り自体が性行為、つまりその性的欲求を満たすことになってしまう。
だから、男性が語る相手は男性(セクシュアリティの対象ではない人)であることが必要だ。

なぜ男性グループなのか?
グループでやることの効果。
お互いに体験を共有できる。分かり合える。男性同士の親密性を獲得できる。
ツーショットでやるのが個人治療。
複数でやるのが男性グループ。
グループの力は絶大である。