2012年6月26日火曜日

大人の心


このようにして作られた子ども時代の自我は、10歳から12-3歳くらいの思春期に大きく変化します。まず男の子、女の子らしい身体の変化が現れ、少し遅れて心の変化が現れます。親の庇護から抜け出し自分の力で生きようという欲求が自然に湧いてきます。
子どもの心から大人の心への移行は時間がかかります。行きつ戻りつ徐々に成長してゆきます。そのプロセスは複雑です。しかし通常はあえてそれを理解しなくても自然に成長してゆけるから大丈夫です。でもそれがうまくいかない場合や、そういう人を支援するためには「子どもの心」と「大人の心」の違いを理解しなければなりません。

試練が成長を促す

大人の心への変換のきっかけ(試金石)は失敗体験やトラウマ体験です。生活が平穏無事なときには、心をたくさん働かせなくても生活できます。しかし何かの困難に直面した時に、心をどう使うかということが試されます。それをどうにか乗り越える過程で心の力を育むことができます。ふつう失敗やトラウマは心が痛いですから避けようとします。でも、本当はそれが成長できるためのよいチャンスなのです。
思春期は「子どもの心」と「大人の心」の両方を持ち、場面に応じて使い分けます。大人になっても、「子どもの心」が全く消える訳ではありません。ほとんどの場面で「大人の心」を使いますが、逆境の時などは「子どもの心」に逆戻りします。それが退行現象です。
私が小学校5年生くらいの時だったでしょうか、それまで仲良く一緒に登校していた友だちにいじめられました。といっても大したいじめではありません。小学校の若い美人の「先生のおっぱい大きいね」と友だちに気を許して洩らしたら、まわりの友達に言いふらしてみんなから「エッチな田村!」とからかわれました。今から思えば思春期の性の発来で普通のことですが、当時の私はとても恥ずかしく、自分が否定された気持ちでした。辛くて我慢できず、夕食の時に親に話して泣いた覚えがあります。でも、それに対して親が何をしてくれたかは覚えていません。多分、私の話を聞いて受け止めて、軽く慰めてくれたように思います。自分でも、親に言ってもどうしようもないことはわかっていました。その後の出来事はあまり覚えていません。その近所の友人とはそれまでの近しい関係から少し距離を開け、別々に登校するようになったくらいで、ふつうに付き合っていたように思います。
このような試練に出会うと、「子どもの心」は自分で対処せず保護者に期待します。でも保護者が手伝ってくれないと自分でどうにかするしかないという「大人の心」が芽生えます。小学生だった私の窮地を親はわかってはくれたものの、何も手助けをしてくれませんでした。上手ではなくてもどうにか処理できた時、自分でできるのだという感覚を少しずつ積み上げてゆくことができます。

やる気=内発的動機づけ(親のエンジン・子のエンジン)

何ごとでもやる気を出して取り組むためには原動力(エンジン)が必要です。子どもは親のエンジンで動きます。自分自身では何をどうしたら良いのかわからず、保護者が朝起きなさい、学校行きなさい、歯を磨きなさい、ゲームをやめなさい、勉強しなさい、テレビをやめて風呂に入りなさい、もう寝なさいなどなどこと細かく注意して、子どもはそれに従うことで物事を達成できます。
思春期以降は言うまでもなく自分自身のエンジンで動きます。まわりの状況を見渡し、自分のおかれた状況を把握し、将来のことを見通して今なにをしなければならないのか見通し実行する能力です。これはほっておいても成長と共に自然に芽生えてきます。
ここでエンジンの比喩を使った理由は、エンジンがふたつあると困るということを伝えたいからです。子どものエンジンを使うためには、それまで使ってきた親のエンジンを止めなければなりません。しかし、子ども自身のエンジンに任せることは思いのほか難しいものです。なぜなら、子どものエンジンは親のエンジンよりも性能が低く、たびたびエンストを起こしてしまうからです。このころの子どもは「子どもの心」と「大人の心」を行きつ戻りつしています。「子どもの心」に戻ると、親に期待して自分のエンジンを止めてしまいます。そこで親がすぐにエンジンを貸すと、その場は良いのですが結果的に子どものエンジンを試す機会が失われます。エンストしそうになって親のエンジンを貸してくれと言われても、すぐには貸さず子どものエンジンがまた動き出すまで見守る対応が大切です。

(この話題についてはすでに何度か書きました)

子どもが成長して高校生や大学生になっても、親の目に映る子どもは可愛かった小さい頃の姿です。小学校に上がるまでは、親が一生懸命に子どもに手をかけて、愛情をたっぷり与えるのがベストです。それは、中学生くらいで終わりにしなければならないのだけど、その時期を逸してしまったようです。大学に入り、つまづいたタロウ君に、相変わらず一生懸命親のエンジンを差し出していました。
エンジンの付け替え作業には親の協力が必須です。いくら子どものエンジンが動き出しても、親のエンジンも動いていたらうまくいきません。ひとつの車にエンジンがふたつもあったら暴走してしまいます。親のエンジンを停止させること。その作業が必要です。

コミュニケーション能力

ソトの世界では異質な人たちがお互いに折り合いながら自分のニーズを満たします。他者のニーズと自分のニーズは完全には一致しないものです。相手と折り合うためには自己を部分修正し、相手も部分的に修正してもらうよう依頼します。それがコミュニケーションです。そのために相手にメッセージを届ける能力と、相手のメッセージを受け取る能力のふたつのスキルを使います。
自分がこうしたいという欲求を相手が理解できる形ではっきり伝える能力が自己主張性(アサーティブネス)です。相手の都合を保留にして、自分自身を押し出し正当に主張します。いくら丁寧に伝えても相手に届かなかったり、否定的にとらえられたり、誤解されるリスクを覚悟しなければなりません。
もうひとつは他者からのメッセージを理解して、その気持ちを受け入れる共感能力です。相手が伝えようとしていることを理解し、まわりの状況と照らし合わせながら相手の気持ちやニーズを受け取り、自分自身を曲げてそれに適合させます。
このふたつの調整は結構むずかしいものです。自分のことばかり押し出すと自己中心的なり、まわりから浮いてしまいます。逆に相手のことばかり受け入れてしまうと自分がなくなってしまいます。自己をしっかり押しだしつつも相手に適合し、うまく折り合わねばなりません。
日本文化では自己主張性があまり好まれず、他者指向性つまり相手や場の雰囲気に自分を合わせようとします。その傾向が強まると相手の言動に過度に敏感になり、自分を抑え込みます。すると相手の些細な言動によって自分が全面的に否定されたと感じ、自分が受け入れられない場を諦めて全面撤退します。

痛みを請け負う(感情のコントロール)

ソトの世界では自分の思いどおりになることは不可能で必ず傷つきます。自分の思いが達成できず落胆したり、相手から自尊心を傷つけられたり、大切な物や人を失い悲しんだり、奪った人に対して怒ったりします。このようなマイナスの気持ちに向き合うのは辛く痛いことです。子ども時代は保護者が責任をとりカバーしてくれますから、自分が痛みを請け負わずに済みます。しかしソトの世界に飛び立つと、自分でどうにかして痛みに向き合わねばなりません。自分の気持ちをなんとかコントロールして自己が崩壊せずに平常心を維持できれば、痛みを切り抜けた成功体験となり自信を得ます。逆に痛みをうまくコントロールできないと、不安が大きくなりパニックになったり、怒りが爆発したり、感情を遮断してうつになったりします。何度かこのような失敗を繰り返す中で、だんだんとうまくコントロールできるようになっていきます。いきなり一発でうまくできるようになることはありません。必ず失敗します。

自己責任

「大人の心」は成功も失敗も自分の責任です。しかし痛みを自分自身で引き受けることが辛すぎて処理しきれないと、「大人の心」をあきらめ「子どもの心」に戻り、保護者に責任を取ってもらいます。自分の失敗は保護者のせいですから、もっとちゃんとしてくれと要求したり不満や怒りをぶつけます。
だからと言って「ソトの世界」に踏みとどまるためには、すべての責任を自分でかぶるのが良いというわけではありません。客観的にみて学校、学校、職場、社会などを含め相手の責任が問われるべき状況もあります。自己責任か相手の責任かという判断は難しく、やみくもに自己責任を避けようとするのではなく、自分も相手も完璧な100%はあり得ないという前提のもとで冷静に判断します。自己責任論を拡大解釈すると「努力が足りない、もっとがんばりなさい」といった根性論になってしまいます。どうすることもできない困難さを抱えた現実を認め、限られた資源の中で折り合いつつも、どう自分のニーズを最大限に実現させるかと考えます。

このように試行錯誤しながら、徐々に「大人の心」に成長すると次のような資質を獲得してゆきます。

自信(肯定的な自己評価)

子ども時代は、保護者が守ってくれるという条件のもとで何でもできるという受動的な期待(自己万能感)を持っています。万能感の由来は自分自身ではなくまわりの保護者なので、プライドが高く守られたワク組みのなかでは高慢に振舞います。それとソトの世界における自信(自己肯定)は全く異なります。ソトの世界で自分は他の人たちと肩を並べるだけの資格があるんだ、引けを取らないのだという感覚です。それは自分の能力・資質の認知と成功体験に由来します。自分の能力、たとえば学力、体力・運動能力、容姿などを含め、自分は他の人たちと対等に渡り合えるだけのスペックを持っているんだという感覚です。さらに自分の能力・資質を認めてもらうためにはコミュニケーション能力も必要です。多分大丈夫だろうという予測があれば、思い切って試してみることができます。うまくいかなくても何度かトライしたらうまくいったという成功体験を積み重ねることにより自信を獲得してゆきます。
もちろん、ひとりだけの力ではうまくいきません。まわりに助けを求めることも必要です。しかし、まわりの力を導き出すことも自分の責任であり、まわりがうまく助けてくれなくても、責任をまわりに押し付けません。

等身大の自己像(70%の自己、傷ついた自分を受け入れる自信)

ウチの世界では自己万能感、つまり100%の自分でいることができます。しかし、外の世界では自分の思い通りの100%をキープすることは不可能です。小学3-4年生くらいまではまだのんびり子どもで居られますが、思春期に入るとさまざまな試練が待ち受けています。中学・高校、大学、就業、結婚、子育てなどなど、勉強や仕事、役割に求められる要求水準はだんだん高くなっていきます。すべてかなえられるのはごく少数の限られた人でしょう。また、人と折り合うためには自分がOKであると同時に相手もOKであると認めなくてはなりません。自分も肯定しつつ、相手も肯定するという不可能な選択を迫られます。スポーツ選手やケーキ屋さんなど子ども時代に描いていた将来の夢を縮小・変更し、ソトの世界で折り合うために自分らしさの一部を切り捨て、60-70%くらいの自己像に縮小します。
そのためには安全に傷つき、縮んだ自分が他者によって肯定されなければなりません。つまり、致命傷ではない程度に否定され、同時に否定された自己を肯定される体験です。
私は小学3生の頃、給食時間の静かにするべき放送時間に騒いで大好きだった担任の先生から注意され体罰(ビンタ)を受けました。ショックでとても傷つきましたが、その先生は他の面では私を認めてくれていました。
また中学1年生の時、柔道部にいた私は3年生の先輩から気絶するほど投げられひどく傷つきました。中学の頃の2年差はかなりの体力差があります。しかし私を痛みつけたその先輩は部長として皆から慕われていました。
これらは自己を否定され傷つけられつつ、同じ相手から肯定もされている点で共通しています。このようにして、私自身は夢破れ、縮んでしまった自分を受け入れてきたように思います。

居場所(立ち位置)の確保

ウチの世界では保護者が安全な居場所を提供してくれますから自ら居場所を探す必要はありません。ソトの世界では自分の居場所を自らの力で確保しなければなりません。広い異質な世界の中で、自分の存在が認められ、ここに居て良いという安心感を確保し、自分のニーズが満たされる定位置を自らの力で見つけ出します。それは仲間関係や学校、職場、地域コミュニティ、あるいは結婚して自分で作り出す家族などです。
居場所の確保は集団志向性が強い日本文化に生きる我々にとって特に大切です。欧米文化的な独立志向が弱く、「世間」の中で生きることが生きがいにつながります。宗教の規範が強い文化では神といったような超越した存在と自己との契約により自分の存在価値が証明されます。したがって神さまに見捨てられたら自分の存在が危機に陥ります。ムラ社会的な日本の文化では神の代わりに「世間」、つまり自分が所属する居場所が自己の実存証明を与えてくれます。したがって村八分やいじめのように居場所から疎外されると自己の存在が危機に陥ります。自分の居場所を失った「ひきこもり」も同様です。

ソトの世界での親密性

ソトの世界の中に安心できる関係を築いていきます。それは親の代わりになるような、しっかりした規範を持ち、見習うべき人です。学校や塾の先生、スポーツクラブや地域活動の指導者、クラブ活動の先輩などが一般的です。お互いに分かり合える親友も含まれます。やがて、恋愛対象を見出し、一対一の排他的な親密性を形成します。そのようにして、ソトの世界にも確固とした拠り所を作っていきます。

親との関係の再調整

自立するとは、支配下にある絶対的な親を引き摺り下ろして相対化します。いわば親の支配から脱したのだという独立宣言であり、独立を獲得するために戦争(=反抗)します。その戦いの後に和解が来ます。もはや親に完全性を求めず、親の限界・欠点を客観的に認めます。親はいなくても自己を維持することができ、必要不可欠な存在から空気のような存在に変わります。
無条件の愛情・保護を与えてくれる母性が相対化され、もはやこの人には依存できないなと諦め、飲み込まれるポジションから自分を切り離します。
偉大で尊敬すべき父性の権威性に挑戦します。子どもの頃は尊敬し、従うべき人だったのが、対等に話し合い折り合える人になります。そうすれば権威性を自分自身に取り込み内在化できるようになります。
これらが不十分だといつまでも親の支配下とどまり、抜け出すために反抗しなければなりません。まごまごしているとまた支配されてしまうから、親を遠ざけようと否定しつづけます。そうしないとまた親に飲みまれる恐怖を抱きます。親との和解が不十分だと親への憎しみ・怒りをいつまでも抱きます。

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