2012年6月26日火曜日

子どもから思春期へ。子どもの心の発達と社会性の獲得


なぜひきこもるのでしょうか。いろいろな識者がいろいろなことを言っていますが、これが定説だという考え方はまだありません。その中で、私の経験に基づいた、私なりの見方をご紹介します。
ひきこもりは心の病気ではない、怠けや甘えでもない、友だちからのいじめでもない、親のしつけの責任でもない、学校の責任でもない、世の中(社会)の責任でもないと考えています。いえ、もっと正確に言えばこれらのことすべてが微妙に関連しています。でも、その根っこにあるのは子どもから大人へと心が成長していく過程におけるつまづきです。別に誰が悪いわけでもありません。本来なら自然に成長していくはずの心が、なぜかうまくいきません。子どもは「ウチ」の世界にいて周りから守られ、大人は「ソト」の世界で自分自身を守ります。この「子どもの心」から「大人の心」へ十分に移行していないまま「大人の社会」に入ってしまったための矛盾がひきこもりです。
子どもの心とは、大人の心とは、そしてそれがどのようにして切り替わっていくのかを順に説明しましょう。

子どもの心

乳幼児から思春期に入る前、つまり10歳くらいまでは家庭や保育園・幼稚園・小学校など「ウチ」の世界に留まり、親や教師など保護してくれる人によって守られています。
子どもは基本的に無力な存在です。外敵から自分を守る力はまだありません。保護者が守ってくれなければ自分は成り立たちません。無条件に愛し、肯定・承認してくれる人が必要です。多くの場合そのような愛着対象は親ですが、保育者や小学校の先生などのこともあります。子どもは心も体もその人にピッタリくっつき全面的に頼ります。保護者はちゃんとそれを受け止め、子どものニーズに応え、何をしても見捨てられることなく守られているという安心感を与えます。そのような基本的な安心感と信頼関係が成立していると自分はこの世に生まれてきて良かったのだ、この世は基本的に安心できる場所なんだという感覚を抱きます。
保護者が自分のことをすべて面倒みてくれ、うまくいかなければ保護者が責任をとってくれます。このような安全な居場所の中で子どもは「100%の自分」になることができます。それは絶対的な自己肯定の感覚、つまり保護者によって約束された自己万能感です。それが元になり、思春期以降に他力から自力へと肯定感の基礎を徐々に移行してゆきます。子ども時代の肯定感は他者によって与えられたもので、大人が持つ自己肯定は自分の力によるものです。でも子ども自身はその違いに気づきません。
保護者からの承認(愛情)を十分に得ることで、自己万能感が満たされ、満足し、そこから安心して離れていくことができます。しかし十分な承認が得られないと、思春期以降になっても他者の愛着を求め続けます。自分ひとりでできる実力を獲得しても、自分としてはできているんだという感覚を持てません。そのためにいつまでも愛着対象を求め続け、うまく自立できません。

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