2011年4月24日日曜日

被災地レポートのまとめ

2011410-16日にかけて一週間ほど、被災した陸前高田に入りました。私の感じたことも含め、その概要を報告します。

l  私がやったこと
Ø  民間NGOである日本国際民間協力会NICCOが展開する被災者支援チームにボランティア精神科医として加わり、心のケアを行った。
Ø  具体的には、巡回診療で医療支援を行う中で心のケアが必要な被災者と面談し、カウンセリングや投薬などのケアを行った。
Ø  陸前高田市の災害対策本部で毎朝・夕開かれる3つの支援者ミーティング(保健ミーティング、心のケアミーティング、医療ミーティング)に参加し情報交換などを行った。
Ø  支援チームのメンバー10数名とミーティングを行い、心の支援の考え方や具体的な方法などについて紹介した。

l  被災地の現状
Ø  山が海岸線まで迫る三陸海岸にわずかに開けた平地全体に津波が押し寄せ、見た渡す限りの平原が瓦礫の廃墟と化している。高田市(人口23千)の死者・行方不明者は約2500名。一割以上の方々を失った。まさに、戦時中の焼野原に相当する。報道の映像ではなく現場を目の前にすると、自然の破壊力と人間の生活の無力さに人生観が変わるほど強く気持ちを揺さぶられる。
Ø  道路の瓦礫は撤去され、車での移動はスムーズになっている。自衛隊や警視庁の重機が多数入り、私が滞在した1週間の間にも、どんどん瓦礫の山が整理されていた。しかし、まだまだ先は長いと思う。また、道路わきの電柱と電線の工事が急ピッチで進められていた。
Ø  避難所で生活する人々の数は震災直後に比べて減ってきている。残された人々も昼間は瓦礫の撤去などの活動を行い、留守のことが多い。仮設住宅も少しずつ作られてはいるがまだまだであり、親戚・縁者宅などに行く人が多いという。
Ø  高台の家など津波を逃れた地域も多いが、水道、電気、ガスなどのインフラが破壊され、炊事、トイレなどが使えない。生活は自宅でも、食事は避難所の炊き出しでまかなっている方々も多い。

l  心の支援体制
Ø  基本となる生活支援は急ピッチで進められているように見えた。まだまだ復興への道のりは長いが、一部の救援物資は倉庫内に溢れているとも聞く。供給される支援物質・内容と、必要とされる支援物質・内容とのバランスをうまく保つことが難しいようだ。
Ø  私が関わった医療・保健の支援分野では、とても活発であるという印象を受けた。全国から支援チームがやってくる。市・県を単位とした自治体からの保健師チーム、○○医大や大きな病院からの医療チームなどが多数集積してくる。
Ø  それらをコーディネートする機能も生まれている。市の災害対策本部では、生き残った高田市の行政が核となり毎日朝と夕方に30分ほどの支援者ミーティングが行われ、活気に満ちている。30-40名ほど、10-15チームほどであろうか、開始するチームと終了するチームが紹介され、県や市からの連絡事項、それぞれのチームの活動計画・報告などの情報交換が行われていた。
Ø  各地から派遣された保健師チームは、対策本部から地域を割り当てられ、避難所と生活している住居の全戸を訪問し「健康保健調査」が進められていた。3障害(身体、知的、精神)、母子、高齢者介護、高血圧などの慢性疾患などとともに、心の健康などがチェックされる。まだ1割程度の達成だったが、熱心に行われていた。
Ø  医療チームは崩壊した現地の医療システムを補うために、避難所などの巡回診療や、災害本部での仮設診療所などで暫定的な医療が行われていた。

l  心の支援の状況
Ø  生活支援や身体の疾患・ケアなどに比べると、心の状況は目に見えにくい。被災者から心の支援を求められる場面は少ない。
Ø  むしろ、支援者側の「こころのケア」に対する盛り上がりがすごい。心のケアが必要だろうという仮説のもとに、さまざまな支援が試みられている。食事の配給、体を動かしリラックス、エンターテイメントなど、一見関係ないような支援も「心の支援」と結び付けられている。支援者側は、心のケアのニーズを「発掘」しようとがんばっている。
Ø  心の支援が必要なケースは次のように整理できる。
²  1)震災前からあった問題として、
²  a)震災前から治療・支援を受けていた疾患・障害などが、震災により継続が途切れ、それを再開するニーズ
l  例1)50代女性。若い頃リストカットの経験あり。数年前にうつ病で1ヶ月ほど入院したことがある。2年前、突然20代の息子を自死で失う。入院以来、精神科で外来投薬治療を継続していたが、震災で中断している。保健師による家庭訪問により見出され、心のケアチームが訪問し、子どもを喪失した体験などの話を伺った。投薬し、仮設精神科外来に繋がるよう再度家庭訪問する予定。
²  1b)震災による支援により、今まで隠れていたニーズが「発掘」される場合
l  各家庭で閉ざされていた生活が、避難所や訪問支援などにより開かれる。
l  もともと、この地域は心のケア体制は立ち遅れていた。高田市民病院には精神科外来はなく、山間にスティグマ化した旧来型精神病院があるのみだ。震災により心の支援が注目されることによって、事例として新たに見えてくる場合もあるようだ。
²  2)震災によって新たに生まれた問題として、
²  2a) 震災体験がトラウマとなり生活に支障をきたす場合(PTSD
l  家庭訪問などにより、不眠、イライラ感などを訴える人が増えているというが、まだケースとしては多くは浮かび上がらず、潜在化しているように感じる。
l  240代女性。避難所巡回診療に花粉症の薬をもらいに来たついでに相談してみた。軽い不眠。イライラして子どもに当たってしまう。夜勤に行く日の午後になると「気持ちがドカドカする」。震災の晩、多くの人が職場に押し寄せ、暗闇の中、阿鼻叫喚、パニックになった情景が思い出されすくんでしまう (フラッシュバック)
l  例3)40代女性。不眠。津波で床下まで浸水したが、家は無事。震災の当日、空き巣に入られた。余震があると避難しなければならないかもしれない。余震と空き巣ねらいのため眠れない。(眠ろうとして眠れないというより、眠っては安全が脅かされる環境)。保健師により発掘され、一週間後に再度訪問して話を聞くと、「もう落ち着きました。」とのことであった。
²  2b) 震災により大切な人とものを失う喪失体験により引き起こされる問題
l  例4)妊娠8か月の30代女性。結婚数年後にやっと授かった妊娠。夫は地震の救援に当たっていて、メールもあったのに、1時間後に襲った津波により被災。一週間後に遺体が見つかる。職場の同僚もたくさん失った。被災直後は比較的元気だったが、火葬を済ませ遺品を整理してるうちに無口になり食事せず自室にカギをかけ閉じこもる。親が心配してカギを壊して入ると、泣きじゃくり、あの人の所に行きたい(自殺念慮)。一日泣いてばかり。家族がとても心配し、本人も家族も疲弊しきっている
l  例5)幼い子どもと妊娠中の妻と両親を震災で亡くした男性が自殺を図ったが、吊った紐が切れ助かった。心のケアチームと共に隣町の病院を受診し、抗うつ剤を処方され帰宅した。しかしその後、既遂して亡くなった。(伝聞した話で実際に私が体験したのではない)。
l  例6)立ち話で「うちでも、まだ親と妹が見つかってないんですよ~」と語る男性の表情は、喪失の悲しみではなく、大切なものがまだ見つからない当惑を表していた。「行方不明」という喪失は、喪の仕事を始めることができない。そのことが一層心のケアを困難にしている。
²  2c)震災による生活環境の変化による問題
l  例7)40代女性。嫁入りしたが、姑とうまくいかないので別居した。しかし、家が被災したため再同居する。嫁姑関係が悪化し、姑に罵倒され、うつ状態になる。
Ø  心の支援の困難さ。心のケアのニーズは、一見まだ高くない。
²  震災復興を、下記のような3段階に分けてみると、、、
l  Phase 1)危機介入・救命、安全の確保
Ø  生命の危機が回避され、避難所に至るまで。
Ø  避難所生活は安全を確保できるが、水は汲み出し、不衛生な臨時トイレ、食事は配給か炊き出しと、生活のQOLは最低レベル。
l  Phase 2) とりあえず生きながらえる生活の確保
Ø  仮設住宅に至るまで
l  Phase 3) 安定した生活の再建
Ø  QOLを維持し永続可能で自立した生活
²  本格的な心のケアのニーズが被災者からあがってくるのはPhase3以降であろう。今の陸前高田はPhase1を終え、Phase2からPhase3に向かい始めた時期であろう。まだ生活基盤が整わず、生きるのに必死な状況では、心の問題にまで意識が向かない。被災者と立ち話すると、悲惨な状況を淡々と特段の感情を伴わず語っている。
²  東北は「ガマン」の文化と言われる。過去に何度も津波災害に見舞われ、陸の孤島として他の地域から隔離されてきた地域性がそのような心性を生んだと言われるが、(例1)、(例2)のように落ち着いて話を伺う機会があれば、たくさん気持ちを話してくれた。心のケア体制がない中で生まれた「ガマン」文化の言説ではないだろうか。
²  (例4)、(例5)のように震災により自殺など心の危機に直面している方々もいる。地元の保健師さんの話によると、元来、この地方の自殺率は高く、震災後、3月の統計によると、自殺者が増加したわけではないという。しかし、今後、長期に渡り被災者たちを注意深く見守る必要はある。

l  支援者について
Ø  全国的、全世界的に支援の輪が広がっている。海外の友人や学会からも、支援の手が差し伸べられている。
Ø  支援者にとっても、ショックな体験だ。私も滞在期間中に状況をネット(ツイッターやブログ)を通じて自分自身の体験と感情を表出せずにはいられなかった。それが、結果的に多くの人々とつながることになった(ツイッターで震災体験を呟き始めて、フォロワーが一気に100人以上増えた)。
Ø  陸前高田で見る限り、支援者のインフラも整いつつある。私は寝袋を持参して、避難所的な生活を想像していたが、加わったNGO組織が陸前高田市の近隣の町に宿泊を、そして移動の車なども用意してくれた。普通の食事とお風呂も、電気も、ネット回線もある生活だった。他のチームも同様な状況のようだ。
Ø  個人ベースでやってくるボランティアのための受付センターも整っていた。専門スキルではない一般のボランティアがどのような動きをしているかは、今回みることができなかった。
Ø  全国各地からやってくる多様な支援者たちをどうネットワークしていくかが今後の課題だ。医療と保健分野では、地元の行政が中核となってミーティングなどまとめているが、彼ら自身が被災者で、数少ない人数で大量の業務をこなしている。彼らのバーンアウトが心配だ。
Ø  病院や各地の行政から送られてくる支援者は、数日単位で入れ替わる。申し送りがされているものの、支援の連続性をどう保つかが問題だ。
Ø  より効果的なネットワークを誰が、どのような形で構築してゆくのか。刻々と変化する支援ニーズを的確にとらえ、支援者たちに伝え、効果的に支援してゆくためのネットワーク機能についても長期的、全国レベルでの支援が必要だ。
Ø  地元と外来の支援者間のネットワークは工夫が必要だ。病院や学校など、地元の機関も被災して部分的に機能が失われている。外来の支援者たちは短期的で入れ替わりが激しい。両者で話し合いの機会を試みても、心情的にうまくいかない例がいくつか見られた。
Ø  支援者自身の心のケアをどう考えるかも重要な課題だ。被災者に接することで、支援者もトラウマを受ける(二次受傷)。それをうまく消化しないと、燃え尽き(バーンアウト)につながる。
²  特に、地元の被災者兼支援者である人は、被災による一次受傷と支援活動による二次受傷が重なり、より多くのストレスを受ける。
²  外部からやってくるボランティア支援者たちの動機についても注目する必要がある。既存の社会に軽い不適応を感じ、自分探し、居場所探しが無意識の目的となっている人も少なくない。
²  (比ゆ的に表現すれば)支援者自身の心の揺れを自覚する必要がある。今回のような大震災は、人々の心にも余震を残す。震災以前から自分の揺れを持っている人ほど、共感能力が高い。しかし、支援者自身の心の基盤がぜい弱だと、二次受傷のために崩れてしまう危険性も持つ。
²  それを予防するためにも、支援者のセルフケアが必要となる。たとえば、支援チーム内でミーティングを開き、業務連絡とは別に、自分自身の支援体験と巻き起こされた気持ちを表出し、クールダウンできる機会を設けるなどの対策が必要だ。

l  今後に向けて
Ø  私としても、日常生活の合間を縫い、支援を継続してゆきたい。効果的な支援を行うために、いくつかの可能性が考えられる。
Ø  精神科医の立場では、ふたつの支援モデルが考えらえる。
²  医学モデル)統合失調症、内因性うつ病など薬物・入院治療を必要とする方々を中心に、震災で失われた病院の機能を代替するために、臨時の診療体制を支援し、永続的な診療体制の復興へ向けて支援する。陸前高田市では、私が滞在している間に東京都の医療チーム(松沢病院が中心だった)が、震災対策本部の仮設クリニックに週1回午後だけの精神科外来を設立した。
²  心理社会モデル)地震・津波という恐怖体験によるPTSDや、愛する人や家財を失った悲嘆反応によって引き起こされる心の問題は、対症療法としての入眠剤や精神安定剤は一時的な解決にしかならず、信頼できる人との繋がりの中で復興できる。それは保健師、心理カウンセラー、教師、ボランティア相談員、地域コミュニティーのリーダーなどが活躍する分野である。精神科医としては、1) これらの人々をつなぎコーディネートする役割、2) 医学モデルとの峻別、あるいは、3) 支援者への後方支援(バーンアウトの予防・対応)が主な役割になるであろう。
Ø  私の所属する家族療法学会では、震災支援委員会が立ち上げられた。特に家族支援について、学会レベルで何ができるか検討する。
Ø  3月に国際家族療法学会に出席し、世界の家族療法家からの応援を受けた。世界の関心も高いことを実感した。6月にはアメリカ家族療法学会に出席し、特別に日本の震災についてのワークショップを開いてくれることになった。海外からどのような支援を受けられるか検討する (Boss, 2003. 2006; Landau, 2004, 2008)
Ø  私が理事を務める「いのちの電話」では、暫定的に「震災いのちの電話フリーダイアル」を立ち上げた。電話相談についても、さまざまな団体からの支援がすでにあり、混乱気味だ。今後、この活動をどう発展できるのか検討する。

l  文献
Ø  Boss, P., et al. (2003) Healing loss, ambiguity, and trauma: Families of union workers missing after the 9/11 attack in New York City. Journal of Marital and Family Therapy, 29 (4) 455-467.
Ø  Boss, P. (2006) Loss, Trauma, and Resilience: Therapeutic work with ambiguous loss. Norton.
Ø  Landau, J., Mittal, M., and Wieling E. (2008) Linking Human Systems: Strengthening individuals, families, and communities in the wake of mass trauma. Journal of Marriage and Family Therapy 34(2) 193-209.
Ø  Landau, J., and Saul, J. (2004) Facilitating Family and Community Resilience in response to major disaster. In Walsh, F. and McGoldrick, M. (Eds.) Living Beyond Loss: Death in the Family.

2011年4月16日土曜日

被災地レポート4

心の支援が、支援者の間では阪神の経験から盛り上がっているが、現場の声はまだまだ。心の支援ニーズが見えて来るほど復興は進んでいない。原発も余震もあり、Post-になっていない。
もともとこの地は精神医療、心のケア体制が立ち遅れている。「ガマン」の文化、心の支援を受ける動機づけは低い。しかし適切な支援の手を差し伸べればニーズはある。今日、自死で息子を失ったうつ病の女性と話してそう思った。
今後どのような形で心の支援ニーズが見えてくるか見守る必要がある。今回の滞在で見えてきたのは、家族を失った喪失感による自殺未遂と既遂。これは大きい。特に家族を複数失っている場合は深刻だ。
PTSDは不眠など比較的軽症が多かった。余震によるフラッシュバックなどがどの程度なのか、よくわからなかった。もう少し、現地に入り実態を体験し見聞きする必要がある。

精神科医が何をできるのか。
1) 医学モデルとしては現地の医療体制が復興するまでの臨時医療保健体制のバックアップ。東京都はこれをやっている。保健師によるアウトリーチ(健康保健調査)は全戸目指して全国からの応援がある。これは有効なニーズの掘り出しだろう。
2) 心のケアの心理社会モデルはいろいろ考えられる、というかあらゆる支援がそれに結びつけられているみたい。
3) 喪失とトラウマを語り表出する機会の提供。ストレートに集めても来ないだろう。食事、物資、レジャーなど出て来やすいことと抱き合わせて機会を提供する。生活、福祉、保健、教育など各種支援団体との連携が大切だ。どのように表現する機会を作るか工夫が必要だ。
4) 支援者の支援。burn out対策。短期でやって来る専門家チームは不要だが、不休不眠の現地担当者や若い学生ボランティア、フーテンボランティアは必要。
5) 心のケアチームの応援。今回加わったNGOチームは若い看護師、保健師、心理士などが頑張っていた。コーディネート役もちゃんといたから僕はチームにくっついて回るだけで、出番は少なかった。それでもチームにとってDrの存在は心強かったみたい。

家族療法家が何をできるのか。
1) 家族による悲哀の仕事のファシリテート。PTSD対策は主に個人ベースだろう。家族単位、コミュニティ単位が有効なのは喪失のワーク。共通の喪失体験が相乗効果を生む。でも、機会の設定とファシリテートに余程の工夫が必要だ。
2) 文献集めて、震災家族支援のマニュアル作って使ってもらうか。ネットで配信するとしても、机上の空論ではなく、実際に使ってみる必要あり。
3) PaulineのAmbiguous lossやJudith Landauでも紹介する?
4) 大会でなにする?今からだと自主ゼミ程度か。原案を練って、チームでも作るか。
今、これを帰りの新幹線の中でiPhoneで書いている。
福島までバスで来て、被災地陸前高田からの生還。街にはネオンが灯り、外食産業や新幹線がある。高田には何もなかった。見渡す限りに広がる街全域の瓦礫の山は何だったんだろう?まぼろしなのか?高田と東京、どっちが本来の人間の生活なんだろうか?
支援した、圧倒的な弱者のためになったのか。それを求めてやってきたけど、それが得られた実感はない。確かに役には立てたはずだ。でもそれって自己満足でしょ!いくらやったって自然の前に人間は無力だし、無力だけどいきながらえているんですよ。それは仕方がないことだし、無力さを謙虚に受け止めるしかないのかもしれない。
未だに「支援者ハイ」の状態が続いてるみたい。元の生活に再適応するには、多少時間がかかるかもしれない。

2011年4月15日金曜日

被災地レポート3

心の問題の種類。1) 震災前からあった問題。継続したケアが途切れる場合と、震災支援により新たに発掘される場合。2) 震災により新たに生じる問題としてPTSD、悲嘆反応、環境の変化によるものなどがある。

PTSDの例。避難所巡回診療に花粉症の薬をもらいに来たついでに聞きたいんだけど。軽い不眠。イライラして子どもに当たってしまう。夜勤に行く日の午後になると気持ちがドカドカする。震災の晩、多くの人が職場に押し寄せ、暗闇の中、阿鼻叫喚、パニックになった情景が思い出されすくんでしまう。(フラッシュバック)

悲嘆反応の例。巡回中飛び出して来た家族により発見。やっと授かった妊娠。夫と職場の人多数を失う。直後は元気だったが、火葬を済ませ遺品を整理してるうちに無口になり食事せず自室にカギをかけ閉じこもる。親が心配してカギをを壊して入ると、泣きじゃくり、あの人の所に行きたい(自殺念慮)。一日泣いてばかり。家族の心配、疲弊。

生活環境の変化の例。嫁姑不仲で親子世帯分離。家が被災して再同居。嫁姑関係が再燃、姑に罵倒されうつ状態に。

どのようにケアするか。
震災のショックな記憶、喪失の悲しみの想起は辛い。取り乱してしまう(自我崩壊の)不安から隠そうとする、我慢する(東北の地域性)→心の中に押し込まれたまま長期化する。それに対し、何度も繰り返し、安全に表出する。時間の経過と共に消化してゆく。被災者の物語を丁寧に聴く。まず十分な信頼関係を。話を遮らず、その人の立場になり共感する。励ましは禁物。アドバイスは不要。何かをしてやろうとがんばらなくてよい。こじれたPTSD、悲嘆反応(精神・身体症状、問題行動などが生じている場合)は専門家へ。
個別に聴く方が安全感・信頼関係を築きやすい。
家族・集団で聴くと、共通の被災体験を持つのでお互いに分かりあえる。家族・コミュニティの再建に繋がる。しかし、場のコントロール(批判、トラブルを回避)が必要。
喪の仕事(mourning work)安全な環境で喪失の悲しみを十分に表現する。泣いて良い。信頼できる他者に受け止められる。何度も繰り返し、消化してゆく。

支援者自身の心のケア。
支援者ハイ;高い使命感(軽そう状態)。がんばり過ぎても疲れを感じず夜遅くまでミーティング。不眠。やがて突如動けなくなる、身体の不調、イライラ、怒り、批判的、対人関係トラブル。
二次性PTSD:被災者の悲惨な状況の目撃・受け止めがトラウマとなる。支援者自身が被災者の場合要注意。一次受傷と二次受傷が混同し増幅されたり、被災者に投影される。
支援者のセルフコントロール:十分な休息・睡眠。気分転換(レジャー、節度あるハメ外し)、不摂生を避ける。
セルフケア・ミーティング「今日の活動のマルとバツ」10人程度までのグループでひとりずつ紹介。マル=うまくいったこと、良かったこと、感動したこと、自分の強み。バツ=うまくいかなかったこと、失敗したこと、心配なこと、後悔していること、自分の弱み。まず司会者がモデリング。お約束ごとは、口外しない、お互いを批判しない。
個別のフォロー:懸念される支援者に、先輩格がゆっくり話を聴く。十分受け止め、それで良いんだよ、大丈夫だよと肯定・安心を。

支援者の立ち位置。近すぎる場合:熱心さのあまり感情移入(自分の気持ちを相手に投影する)。自分と相手が混同する。遠すぎる場合:信頼関係が樹立しない(どんな心の介入も無効化される)ほど良い距離:近すぎず、遠すぎず。熱く共感する部分と、冷静に自分を客観視する部分を共存させ使い分ける。

2011年4月14日木曜日

被災地レポート2

被災者のことを思うといても立ってもいられない。と思ってやってきても、すぐに役には立てない。自分が出来て、役立つことを見つけるのは難しい。瓦礫の片付けだって危険への周到な準備と技能がいる。とにかく来ればどうにかなるわけではない。それは、耐えられない、役立ちたいという一方的な自己満足に過ぎない。
被災は非常事態。支援はすごい大変、というわけではない。地元の担当者は疲労困憊。休むことが出来ず、自らも被災していたり。外部から数日間やって来て、また帰る場所がある支援者はぴったりニーズを満たす仕事が見つからず暇だったりする。
被災地の精神科医は当直医みたいなもの。いつも専門性の役目があるわけではない。でも、いてくれたら安心。
なぜ、支援地に来るの?
組織の中の役割として来る場合、目に見える成果をあげるための支援作りに走りがち。心の支援チームが精神科外来を避難所に作った。被災者の声に応えたと言うよりも、毎週交代で送り込まれる精神科医の職場を作るため?
自分探しの大学生。現実に適応せず活動性の高いフーテンの寅さん。必要とされる喜びを体験できる。
支援する側のニーズではないのか?本当に被災者側の目線に立てるのか?
支援者ハイ。困難に飛び込み、頑張ろうと高揚状態。ずっと動き回り、夜は遅くまでミーティング。疲労感さえ感じない。やがて気づかないうちに燃え尽きる。そうなる前に、身体と心の疲れを自覚し休ませるシステムが必要だ。


2011年4月12日火曜日

被災地レポート

陸前高田に入り二日目。
壊滅的な被災地の悲惨さには息を呑む。自衛隊と重機が多数入っているが、復興にはほど遠い。
被災者たちの危機管理、安全を確保する最低限の支援は満たされつつある。しかし、QOLは正に最低レベル。水は汲み出し、不衛生な臨時トイレ、火を使えないので、食事は配給か炊き出し。山岳部時代のキャンプ生活のようなものだ。一過性に生きながらえても、長期間とても耐えられるものではない。
支援するためのインフラはかなり整ってきた。私が加わっているNGOの支援チームは、陸前高田市郊外にベースキャンプを確保し、水、電気、ネット、それに安全性などが十分に確保されている。
最低限の生存のための支援はかなり整っているように見える。毎朝と夕方に開かれる医療ミーティングと保健ミーティングに参加した。全国各地から自治体の保健師チーム、医大チームなどが多数入り、地元の支援者が中心になり、担当地域の分担、情報交換などネットワークも整いつつある。避難所の人数は減りつつある。ここで見る限り、医療保健支援者と医療品などの資材はむしろ供給過剰気味だ。他の小規模被災地の状況がみえない。憂慮される。
今後の課題。
☆危機介入的なPhase 1支援はほぼ満たされ、今後はより安定した生活を目指すPhase 2に移行しつつある。それは、住居、水道、電気、下水、道路、交通、経済活動など多方面。そこに医療、保健なども含まれる。
☆心理サービス、精神医療も壊滅したので、それを補う支援は必要であり、各方面からのサポートはある。それとは別の次元て、被災者がみな経験したはずの喪失を癒し、PTSDを予防する心理支援はようやく緒に着いた段階。また、被災の最中で、Post-になりきっていない。
☆広範囲に広がり、刻々と変化する支援の需要と、全国からどんどんやってくる支援チームの供給を把握しマッチさせるコーディネート機能が必要。今は地元行政が担当してるが、彼ら自身被災者で、不休の激務でかなり疲弊している。
☆子どもと家庭の心理支援ニーズをどう把握し、どう供給するか。来週から新学期が始まる。先生たちも被災している。明日、地元の教育委員会と話し合う予定。