2011年7月8日金曜日

精神科医療が日本で難しいわけ

日本では、精神科治療が積極的な問題解決手段であると認められていないという面があります。

だれでも自分に問題や異常があると認めることは困難です。
身体の病気と比べてみましょう。
私は先日、人間ドックに行きってきました。もう15年以上前から毎年受けています。今のところメタボすれすれくらいで、それ以上の異常は発見されていませんが、もし自分でも気づいていない異常が何か見つかったら、とてもイヤな気持ちになるでしょう。
早期発見・早期治療。医療者側に立てば、その重要性はよくわかるのですが、治療を受ける側に立つと、それはとても困難なことです。

内臓に影が見えました。
血液検査の数値が異常に高いです。
至急、精密検査を受けてください。
もしかしたらガンかもしれない。治る見込みのない病気かもしれない。

とてもイヤな気持ちになりますね。病院なんて行きたくない。行けば、その現実に突き付けられます。でも、行くしかないですね。勇気を出して病院に行きます。

「手術をします。家族を呼んでください。」

家族はびっくり、大慌て。でも非常事態、家族みんなで一致団結して困難を乗り切ろうとします。
治らないかもしれない、治るかもしれない。でも、そんな結果は二の次で、とにかくみんなで協力します。

精神科の場合、心の影は客観的には見えません。レントゲンにも血液検査にも反映しません。
何かがおかしくなり、日常生活がうまく回らなくなります。たとえば、仕事や勉強ができなくなったり、気分が塞ぎ、ふつうの生活に支障が出るなど。そのことをご本人が感じるか、あるいはまわりの人が気づきます。
そうなったらすぐに精神科や心理カウンセリングに行くかというと、そうでもありません。
精神科に行くのはとてもためらわれます。
日本の場合、勇気を出して行くというイメージではありません。
勇気が出ないから、仕方なく負け犬として行くというイメージの方が近いのではないでしょうか。

心の病気は治らないもの。
心の病気は、心の弱さから来ている。
甘えているだけ、怠けているから、心が未熟だから。人間ができていないから。
ダメな人間だから。

精神科医に行くということは、そのようなマイナスのレッテルが張られ、「ふつうの人」の道から外れてしまうという不安感があります。

昔の精神医療はスティグマ化、つまり異端者として辺縁に押しやられる精神障害者、狂人、理解不能な人として扱うための差異化の装置でした。
「精神病って治るんですか?」
その疑問の前提こには、もう治らない=別の世界に行く人、普通にはもどれない人という含みがあります。

そのように考える根底には、日本人の自然観があります。
我々は自然であることを大切にします。自然=「あるがまま」にしていれば、必ず自己治癒力が働いて、問題を乗り越えられるはずという究極の性善説です。

精神科に行くということは、その力をあきらめてしまっているとみなされます。心の問題なんて、自分の力で自然に乗り越えられなければいけない。それができないのは、弱い人、ダメな人なんだと。

日本でも海外でも旧来の精神病院はマトモでない人々を、マトモな社会から分ける役目がありました。精神科単科の病院の多くは社会から隔絶された町はずれににあります。まわりに誰もいない場所。収容所のように「狂人」を隔離していました。
アメリカ映画の名作、ジャック・ニコルソン主役の「カッコーの巣の上で」がその状況をよく表しています。私が若い頃、勤めていた病院もそうでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿