2010年5月21日金曜日

アナログとデジタル

せっかく、iPad予約開始2日目に予約の申し込みに行ったのに、もう受付停止だって。ムカついた腹いせに、銀座の伊藤屋で、この革製リーガルサイズのNotePadを衝動買いしてしまった。デジタルのNotePadではなく、アナログね。
この半年ほど、アナログの記述に凝っている。今、使っているモンブランの万年筆は、高校時代に贈り物として人からもらい、20年以上机の中に眠っていたのを1編ほど前に引っ張り出し、ペン先を替え、オーバーホールして使っている。罫の太い便箋も揃え、時々手書きの手紙も書いたりしている。今までは、ほとんどe-mail。手紙を送るにしても、ワープロで作り、プリントアウトして送っていたから、大きな変化だ。最近、ドイツのLamyの万年筆を買ったら、これが良い。値段はモンブランよりはるかに安く(3千円くらい)、外観はプラスチックの原色で、安っぽい印象だが、書き味は高級万年筆を凌ぐ。
ふだん、二種類のノートを持ち歩いている。B5サイズのコンパくな雑記帳には、ふだんの仕事の中で生じる断片的なメモを書く。もうひとつの、これ、A4リーガルサイズのノートは、ちょっと仕事から離れ、時間と気持ちの余裕ができた時に、長めの文章を書いている。その時々に心(頭)の中に浮かんできたことを書きとめる感じ。A4の紙の広さと、万年筆の軽い筆圧での滑らかな書き味が心地よい。
問題は、それをする気持ちのと時間の余裕が、日常生活の中で限られていることだ。今は、帰宅途中のスタバで抹茶ラテを飲みながら、モンブランでNotePadに向き合っている。夕刻、店は混んでいて、隣の二人連れはさかんにおしゃべりしているが、耳にはiPhoneで音楽を聴いているのでそれほど気にならない。今の時間だって、帰宅途中、職場と家庭というふたつの現実の隙間をやりくりして、やっと確保した30分だ。職場や家では、仕事や家事が押し寄せ、隙間の時間を作るのは不可能に近い。確保できるのは、出張の晩、飛行機や新幹線の移動中くらいかな。去年は書き出すべきものがたまっていたから、家でも職場でも、他の作業より優先して書いていたけど、今はだいぶ回復した。

人間の存在(=心理)って、アナログの世界だ。自己にぴったりとくっついているから、その良しあしも、何も見えてこない。Psychotherapyとは、(あるいは、もっと広く撮れば科学とは)主観的世界を客体化して、客観的に眺められるようにすること。そうすれば、そのモノを外から眺めて理解し、全体像を把握して、その行く末を考えたり計画できるようになる。心理学では、心と言う主観的な世界に言葉を与え、言語化してゆく作業だ。つまり、アナログな人間存在を、デジタルな言葉に置き換える、AD変換 (Analog-Dijital Conversion)に他ならない。
僕にとって、その変換方法は、今まで二種類だったけど、手書きに凝りはじめて、三種類に増えた。それは、どのようなメディア(媒介)を用いて言語化するかということ。
1.話し言葉
これが、アナログの人間体験を、もっともアナログな形で表現できる。

ここからは、中央線の中。スタバを出て、座れたらまたノートを広げようと思ったけど、残念ながら立ちんぼ。片手でiPhoneで書いている。

話し言葉は、たくさんのnon verbal messageを使える。面接でも、電話でも。簡単。相手と向き合うという直接的な人間関係も体験できる。

2.手書き文字
書き言葉は、大きくデジタルに近づく。文字という記号に変換するから。筆跡と、ペンを持つ手の動きがアナログ。ノートの広さ、ペンの種類(万年筆、ボールペン、鉛筆)によってかなり出て来る内容や出やすさがちがう。気持ち良いもんなあ。

3.完全なデジタル化がデバイスに入力するアスキー文字。活字化され、アナログが入る隙間がない。書きやすさは、スピード面からすると、

ここからまた手書き


かなり早い。効率は良い。PCの両手を使う入力の話だが、話し言葉に次いで、思考のスピードに追いつけるかもしれない。でも、いきなり活字にまとめさせられるから、ちょっと早いというか、もうちょっとアナログのままでいたい、気持ちを込めて書きたいみたいなところがある。
手書きの方が、書きよう(丁寧に書くとか、流し書きするとか)によって、non-verbalな気持ちを載せらるような気がする。
その点、ケイタイ端末の入力は劣る。学生など若い世代は、あまり気にせず、すごい早さで、長い文章を平気で売ってくる。ケイタイ小説の作家とかも、ひょっとして小説をケイタイで執筆してるんだろうか?そうだとしたら、驚きだ。
iPhoneのフリック入力は、キーボードとケイタイの中間くらいのスピード。もうちょっと慣れたら結構スムーズに入れることができるかも。今度のiPadのタッチパネル・キーボードはどうだろう?
デジタル化してしまうと、そこにはアナログ情報が入らず、デジタル化(相対化、客体化)された感情がある。どこまでnon-verbalな感情を文字に書き起こすことができるか:けっこう難しいはず。でも、それを達成できると、自己の体験を科学として料理できるようになる。Psychotherapyというのは、感情という主観的体験を修正したいと考えているから、どう料理するか、そこに他者の手が加わったり、自分で振り返ったり。デジタル・データは再現性(記録性)と、伝達性に優れている。保存しておいて、コピーしたり、加工したり、いろいろ活用できる。たとえば、アナログの話し言葉は、それを目の前で(あるいは、電話の向こうで)、同じ時間を共有している少数の相手にしか届かない。話し言葉はそのまま消えてしまう。せいぜい、聴き手の記憶に保存されるが、それだって記憶というアナログだから、いつ消えたり、変容するかわからない。話し言葉をデジタル化するには、録音して再現性を得るか、テープ起こしで文字に書き表わすかくらい。僕は時々クリニックで、カウンセリングの会話を、ご本人の了解を得た上で、録音し、業者に頼んでデジタル文字に残している。そうすれば、研究材料として、いくらでも料理できる。
最近では、いろいろな、うまい、出至るな記憶方法が出てきた。Web 2.0や、Cloud Computingがそれに近い概念だと思う。今まで閉ざされたstand-aloneのPCのハードディスクに押され荒れていたデータをウェブ上の自分のスペースに置く。Gmailなどのウェブ・メール、データ保存のDropbox、アイデアプロセッサもいろいろ試してみたが、今
使っているのはEvernote。いろんなデジタル・デバイスから入力・閲覧して共有できる。職場・家・出先でのPC、iPhone、さらにiPad。いつでも、どこでもネットにアクセスできる。
一旦、自分のスペースに入れたデータを人に伝える。多少、理解しやすいように加工して。個人的に送るのが電子メール。MLやSNSは閉ざされた、枠組みの中の特定多数に届ける。ブログとウェブサイトは、自分の公開情報。ウェブはちゃんとして、ブログは少し崩して日記風に書く。もっと崩して断片化したのがツイッター。短い思考・感情の断片を、そのまま、不特定多数に届ける。ウェブはちゃんとして、ブログではちょっと崩して日記風に。もっと崩して断片化したのがツイッター。短い思考・感情の断片を、そのまま半分特定化された多数に伝える。
いわば、脳の拡張機能。自分の大脳の機能は、素材を集め(情報を収集し)、料理し(考え)、オリジナルなものを浮かしてoutput(料理として)他者や自分が味わう。それによって、他者に影響を与え、動かす。
それを、今までは、閉ざされた自分の中だけでやって、input/outputだけメディアの力を借りていた。それが、最近では途中のメインのプロセスのかなりの部分をクラウドの中でやっちゃおうという発想。インターネット上から集めた情報を、自分の部屋でなく、ネット(仮想現実)の中にできるだけ整理して保存しておく。それを加工するのもネット上。加工には、どうしても人の力が必要になるが、かなりの部分がデジタルのままでやり取りできちゃう。もちろん、アナログ情報も大切になる。それをprocessするためにネット上に挙げるのは、どうしても人のマンパワーに頼るしかない。

こうやって、紙ベースのアナログな記載もいいのだけど、目下の問題は、それをウェブ上に挙げる手間がかかる。今、締め切りを過ぎた原稿があるから、デジタルな原稿書きは、そっちが終わらなければ、始められない。
連休中、時間がとれて、たくさんノートにideaを書き起こしたのに、こうやってデジタル文字化するまで2週間かかっている。

ああ、よく書いた!

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