2010年8月9日月曜日

開業コンサルタント

いわゆる「医院開業コンサルタント」を使うのはやめた。

二年ほど前、いったいどうやって開業してよいかさっぱり見当がつかなかったので、妻とリクルート関連会社が主催する開業フェア的に行ってみた。たくさんのブースが並び、大手企業が、パッケージとしてコンサルテーションを売っている。名刺を渡し、いくつかの会社とやりとりしてみたけど、どうもしっくりこない。

私の家を建てたときと同じだ。
大手ハウスメーカーが立ち並ぶ住宅展示場に行き、何人かの営業マンとやりとりしたが、結局しっくりこなかった。彼らは多くの情報と経験を持ち、効率は良いのだが、要するにパッケージとなるパターンが既成に用意され、それを当てはめていく感じ。うちの敷地は非定型的で、内装や間取りに特にこだわったわけではなかったが、お仕着せの一般的なパターンにはどうも抵抗があった。ハウスメーカーは諦め、ネットで個人開業の設計士さんをいくつかあたって、相性が合いそうな人にお願いした。設計料を余分に払ったが、家主のニーズをよく伝え、設計図を引いてもらい、オリジナルな満足できる家に仕上がった。そうなるまで約1年間何度も綿密に打ち合わせたのが良かったのだと思う。

私の開業も通常のパターンとはかなり異なる。
地域の人たちが保険証を使って求める医療ではなく、著書やウェブから情報を得て、完全予約制の自由診療。ほかの医療機関との競合を考える必要がなく、立地条件も通常パターンとはかなり異なる。医療スタッフや医療機器もほとんど使わず、必要なのは椅子と机と受付事務のみ。
最近開業した友人の外科医は医療コンサルタントをうまく使って順調に滑り出しているようだが、私の場合はall in oneとしての開業コンサルタントはうまく当てはまらない。

代わりに、個別のコンサルテーションを頼むことにした。
税理士(資金計画)
オフィスのコンサルタント(物件探しに内装・家具)
ウェブデザイナーとイラストレーター(ウェブサイト作成)
出版社の編集者(著書の出版)
それぞれの人たちと、綿密な打ち合わせが必要になる。
今のところまだ差し迫っていないからのんびり言っていられるのかもしれないが、そのプロセスもなかなか楽しい。

私の開業を知った知人・友人は、まず「どこで開業するの?」と尋ねるが、物件探しはまだもう少し先。むしろ今から手掛けたいのは本の執筆。アイデアは頭の中にあるのだが、なかなかそれを掻き出し、書きだすことがやっかいだ。この夏休み、がんばるしかないかな。

2010年7月28日水曜日

辞職願

私こと
このたび一身上の都合により平成二十三年三月三十一日付けで辞職いたしたいので、ご承認くださるようよろしくお願いします。

上司に辞表を叩きつけた、、、

わけではなく、普通に学長に提出した。
すでに大学には口頭で伝え、みんな知ってるけど、正式な必要ということ。そりゃあそうだよな。
しかも自筆、縦書きの正式書類。
そんなの、あとは遺言状くらいだよな。人生の大きな意思決定であることを、改めて実感する。
辞職は自分で選んだ道だし、淡々とした事務手続きのはずなのに、いざ書いてみるとしんみりくる。
、、、と同時に、すっきりした。

2010年5月21日金曜日

アナログとデジタル

せっかく、iPad予約開始2日目に予約の申し込みに行ったのに、もう受付停止だって。ムカついた腹いせに、銀座の伊藤屋で、この革製リーガルサイズのNotePadを衝動買いしてしまった。デジタルのNotePadではなく、アナログね。
この半年ほど、アナログの記述に凝っている。今、使っているモンブランの万年筆は、高校時代に贈り物として人からもらい、20年以上机の中に眠っていたのを1編ほど前に引っ張り出し、ペン先を替え、オーバーホールして使っている。罫の太い便箋も揃え、時々手書きの手紙も書いたりしている。今までは、ほとんどe-mail。手紙を送るにしても、ワープロで作り、プリントアウトして送っていたから、大きな変化だ。最近、ドイツのLamyの万年筆を買ったら、これが良い。値段はモンブランよりはるかに安く(3千円くらい)、外観はプラスチックの原色で、安っぽい印象だが、書き味は高級万年筆を凌ぐ。
ふだん、二種類のノートを持ち歩いている。B5サイズのコンパくな雑記帳には、ふだんの仕事の中で生じる断片的なメモを書く。もうひとつの、これ、A4リーガルサイズのノートは、ちょっと仕事から離れ、時間と気持ちの余裕ができた時に、長めの文章を書いている。その時々に心(頭)の中に浮かんできたことを書きとめる感じ。A4の紙の広さと、万年筆の軽い筆圧での滑らかな書き味が心地よい。
問題は、それをする気持ちのと時間の余裕が、日常生活の中で限られていることだ。今は、帰宅途中のスタバで抹茶ラテを飲みながら、モンブランでNotePadに向き合っている。夕刻、店は混んでいて、隣の二人連れはさかんにおしゃべりしているが、耳にはiPhoneで音楽を聴いているのでそれほど気にならない。今の時間だって、帰宅途中、職場と家庭というふたつの現実の隙間をやりくりして、やっと確保した30分だ。職場や家では、仕事や家事が押し寄せ、隙間の時間を作るのは不可能に近い。確保できるのは、出張の晩、飛行機や新幹線の移動中くらいかな。去年は書き出すべきものがたまっていたから、家でも職場でも、他の作業より優先して書いていたけど、今はだいぶ回復した。

人間の存在(=心理)って、アナログの世界だ。自己にぴったりとくっついているから、その良しあしも、何も見えてこない。Psychotherapyとは、(あるいは、もっと広く撮れば科学とは)主観的世界を客体化して、客観的に眺められるようにすること。そうすれば、そのモノを外から眺めて理解し、全体像を把握して、その行く末を考えたり計画できるようになる。心理学では、心と言う主観的な世界に言葉を与え、言語化してゆく作業だ。つまり、アナログな人間存在を、デジタルな言葉に置き換える、AD変換 (Analog-Dijital Conversion)に他ならない。
僕にとって、その変換方法は、今まで二種類だったけど、手書きに凝りはじめて、三種類に増えた。それは、どのようなメディア(媒介)を用いて言語化するかということ。
1.話し言葉
これが、アナログの人間体験を、もっともアナログな形で表現できる。

ここからは、中央線の中。スタバを出て、座れたらまたノートを広げようと思ったけど、残念ながら立ちんぼ。片手でiPhoneで書いている。

話し言葉は、たくさんのnon verbal messageを使える。面接でも、電話でも。簡単。相手と向き合うという直接的な人間関係も体験できる。

2.手書き文字
書き言葉は、大きくデジタルに近づく。文字という記号に変換するから。筆跡と、ペンを持つ手の動きがアナログ。ノートの広さ、ペンの種類(万年筆、ボールペン、鉛筆)によってかなり出て来る内容や出やすさがちがう。気持ち良いもんなあ。

3.完全なデジタル化がデバイスに入力するアスキー文字。活字化され、アナログが入る隙間がない。書きやすさは、スピード面からすると、

ここからまた手書き


かなり早い。効率は良い。PCの両手を使う入力の話だが、話し言葉に次いで、思考のスピードに追いつけるかもしれない。でも、いきなり活字にまとめさせられるから、ちょっと早いというか、もうちょっとアナログのままでいたい、気持ちを込めて書きたいみたいなところがある。
手書きの方が、書きよう(丁寧に書くとか、流し書きするとか)によって、non-verbalな気持ちを載せらるような気がする。
その点、ケイタイ端末の入力は劣る。学生など若い世代は、あまり気にせず、すごい早さで、長い文章を平気で売ってくる。ケイタイ小説の作家とかも、ひょっとして小説をケイタイで執筆してるんだろうか?そうだとしたら、驚きだ。
iPhoneのフリック入力は、キーボードとケイタイの中間くらいのスピード。もうちょっと慣れたら結構スムーズに入れることができるかも。今度のiPadのタッチパネル・キーボードはどうだろう?
デジタル化してしまうと、そこにはアナログ情報が入らず、デジタル化(相対化、客体化)された感情がある。どこまでnon-verbalな感情を文字に書き起こすことができるか:けっこう難しいはず。でも、それを達成できると、自己の体験を科学として料理できるようになる。Psychotherapyというのは、感情という主観的体験を修正したいと考えているから、どう料理するか、そこに他者の手が加わったり、自分で振り返ったり。デジタル・データは再現性(記録性)と、伝達性に優れている。保存しておいて、コピーしたり、加工したり、いろいろ活用できる。たとえば、アナログの話し言葉は、それを目の前で(あるいは、電話の向こうで)、同じ時間を共有している少数の相手にしか届かない。話し言葉はそのまま消えてしまう。せいぜい、聴き手の記憶に保存されるが、それだって記憶というアナログだから、いつ消えたり、変容するかわからない。話し言葉をデジタル化するには、録音して再現性を得るか、テープ起こしで文字に書き表わすかくらい。僕は時々クリニックで、カウンセリングの会話を、ご本人の了解を得た上で、録音し、業者に頼んでデジタル文字に残している。そうすれば、研究材料として、いくらでも料理できる。
最近では、いろいろな、うまい、出至るな記憶方法が出てきた。Web 2.0や、Cloud Computingがそれに近い概念だと思う。今まで閉ざされたstand-aloneのPCのハードディスクに押され荒れていたデータをウェブ上の自分のスペースに置く。Gmailなどのウェブ・メール、データ保存のDropbox、アイデアプロセッサもいろいろ試してみたが、今
使っているのはEvernote。いろんなデジタル・デバイスから入力・閲覧して共有できる。職場・家・出先でのPC、iPhone、さらにiPad。いつでも、どこでもネットにアクセスできる。
一旦、自分のスペースに入れたデータを人に伝える。多少、理解しやすいように加工して。個人的に送るのが電子メール。MLやSNSは閉ざされた、枠組みの中の特定多数に届ける。ブログとウェブサイトは、自分の公開情報。ウェブはちゃんとして、ブログは少し崩して日記風に書く。もっと崩して断片化したのがツイッター。短い思考・感情の断片を、そのまま、不特定多数に届ける。ウェブはちゃんとして、ブログではちょっと崩して日記風に。もっと崩して断片化したのがツイッター。短い思考・感情の断片を、そのまま半分特定化された多数に伝える。
いわば、脳の拡張機能。自分の大脳の機能は、素材を集め(情報を収集し)、料理し(考え)、オリジナルなものを浮かしてoutput(料理として)他者や自分が味わう。それによって、他者に影響を与え、動かす。
それを、今までは、閉ざされた自分の中だけでやって、input/outputだけメディアの力を借りていた。それが、最近では途中のメインのプロセスのかなりの部分をクラウドの中でやっちゃおうという発想。インターネット上から集めた情報を、自分の部屋でなく、ネット(仮想現実)の中にできるだけ整理して保存しておく。それを加工するのもネット上。加工には、どうしても人の力が必要になるが、かなりの部分がデジタルのままでやり取りできちゃう。もちろん、アナログ情報も大切になる。それをprocessするためにネット上に挙げるのは、どうしても人のマンパワーに頼るしかない。

こうやって、紙ベースのアナログな記載もいいのだけど、目下の問題は、それをウェブ上に挙げる手間がかかる。今、締め切りを過ぎた原稿があるから、デジタルな原稿書きは、そっちが終わらなければ、始められない。
連休中、時間がとれて、たくさんノートにideaを書き起こしたのに、こうやってデジタル文字化するまで2週間かかっている。

ああ、よく書いた!

2010年5月8日土曜日

新幹線の中(話し言葉と書き言葉)

書くmethodにもいろいろある。
1)こうやって、ペンで紙に書く。人に見せるわけでもなく、後で自分で読み返しながらPCに打ち込むわけで、悪筆でも、後で自分が読めさえすれば良い。時に、自分でも判読不明な時があるから困るけど。
2)PCに直接打ち込む。今まではこれが多かった。多分、書くスピードはブラインドタッチでこれが一番早いし、楽だ。しっかりとした、人に読ませる文章を作る時はこれが一番良い。
それに比べると、手書きは人に読ませるというより、その前の段階の、とりあえず自分の頭から出てくる泉をemptyにするために書きとめる感じで、あまり他人様に読んでもらうということは意識していない。それは、PCで清書する段階で考える。
3)iPhoneのフリック入力。小さなモバイル端末で、どう効率よく日本語入力できるか考えだされた方式なんだろうけど、まだ始めたばかりで、キーボードのblind touchに比べると、慣れていない。戸惑いがちだし、時間もけっこうかかる。これにもっと慣れれば多分、キーボードに劣らない効率で書けるようになる気がする。まだ、今はおそるおそる操作している感じ。

今日の講演のテーマは、相談活動における話し言葉と書き言葉。もともと、相談や心理療法(カウンセリング)は、直接会って面談して、話し言葉を使っていた。いのちの電話とか、電話相談でも、使うのは声による話し言葉。
ところが、メール相談とかが出てきて、文字による書き言葉で相談やカウンセリングをやろうという話になってきた。それって、どうなの?できるの?どうやって?ということを、これから京都で話すわけ。今、それをこうやってイメージトレーニングしてるんです。

(ここで、小便で中座。コーヒー飲むのは気が休まるんだけど、時々、席を立たねばならない)

今、ここでやっている作業は書き言葉でしょ。
それと同じ内容を講演では話し言葉で表現します。同じ内容でも、表現の方法、伝わり方が微妙に、というかかなり異なります。
書き言葉は、まず自己語りなんですよね。自分で文字を書いて(打ち込んで)、まず自分でそれを見ます。その後、相手(だれか)に見せるわけ。話し言葉は、自分で確認せず、発した瞬間、相手に伝わってしまいます。面談でも、電話でもそうでしょう。直接、相手に伝わらない場合の違和感は、留守番電話にメッセージを録音したことのある人なら経験済みでしょう。大学で講義していていも、学生たちが熱心に聞いている場合と、居眠りしている場合じゃあ、話し易さが全然違うんです。
要するに、他者との関係性の中で発せられるのが話し言葉で、ひとり、自分の世界で表現されるのが書き言葉です。話し言葉は、そこに相手が必要だけど、書き言葉は、相手がいなくても成り立ちます。書いた後、手紙とかメールで相手に伝えても良いし、日記みたいに、他の人には見せなくたって構わないのです。もし、話し言葉で、それをやったら、独語。気持ち悪いし、統合失調症の症状になってしまいます。

もうひとつの違いは、メッセージが残るか残らないかということ。話し言葉は、録音でもしないかぎり、消えちゃう。
(スタバのグランデサイズは、京都まで十分持つ)
書き言葉は、ずっと残る。正の・負の財産として。
正の財産⇒本や記録として、知識として残して、後からそのメッセージを再現して、再利用できる。
負の財産⇒残したくないメッセージまで残ってしまう。Mis-communicationは日常たくさんあるわけで、話し言葉なら消えて曖昧にできるけど、書き言葉はmismatchがずっと残ってしまい、再現されてしまう。どうしても慎重にならざるを得ない。

話し言葉は簡単。書き言葉は面倒くさい。
話し言葉はアナログ。符号としての言葉はデジタルだが、それ以外にたくさんのnon-verbal messageを使用する。考えていること、特に感情はアナログの世界。言葉になんかできない。言葉に変換したら、本当の感情は消えてしまう=変容してしまう。そういう意味で、話し言葉は生の感情表現に近い。
文字は完全にデジタルの世界。アナログなnon-verbal messageはほとんど使えない。考えや感情をデジタルで表すって大変な作業。AD変換しないといけない。だから、難しく、やりにくい。
でも、それができたら、効果は絶大。変換すること自体、書き表わすこと自体に意味がある。さらにそれが他者により承認されれば、「公式な記録」になる。ゴルフスコアのアテストみたいに。自分の感情(人生)の物語を著述することになる。
ぜんぜんnegativeなwritingに終わってしまうこともあるのだが、therapyの効果を記述の変化から直に読みとることができる。すべて記録に残るから。
一方、話し言葉は感情表出に向いている。
表出しやすい。受け手も共感しやすい。感情(アナログ)のままでのやり取り。その中で、安心感、生きがい、自信を生みだすことができる。動物の交尾や鳥のさえずりみたいなもの。一緒にいる、同期している、interactiveに反応し合うことで、メッセージが成り立つ。

以上をまとめると、
話し言葉⇒ロジャース風の、共感性を中心とする考え方に向いている。原始的(感覚的)な癒し。
書き言葉⇒人生の再著述(narrative therapyの考え方)に向いている。

新幹線の中

これから京都で講演がある。
自分ひとりになれる時間、自分がやりたいことをに没頭できる。家や職場(研究室)にいると、他の用事が怒涛のようにやってくるか、ひとりっきりでも、ついつい他の用事に逃げてしまう。車中では、座っているだけ、他にできる用事が強制的に遮断されるから、集中できる。
車内は快適。最近は、無線LANも使えるようになったし、できれば揺れがもう少しゆっくりとしたスピードだともっと快適な揺れなんだろうが。でも在来線特急の揺れ(常磐線とか中央線)に比べると、まだマシな方だ。京都・大阪くらいの時間がちょうど良い。名古屋だと早すぎる。仕事が乗ってきたかなと思ったら、着いてしまう。岡山・広島だとちょっと長い。
飛行機も良いよな。香港、シンガポール、ハワイくらいの距離が良い。できれば、business classが良いのだけど。Economyは狭すぎる。欧米線の10時間以上は勘弁してほしいし、economy class syndromeになる状況がよくわかる。国内線は短すぎて、まとまった仕事ができない。
でも、飛行機だと車窓がないんだよな。せいぜい雲海くらい。ちょっと集中力を切らした時に外を眺めれば気分転換になる。その点、ゆっくりとしたローカル線が一番良い。(あまり景色が綺麗すぎると、そっちに見入っちゃうけど)新幹線からの風景は、早すぎて忙しない。

さて、何をやろう?
疲れて、集中力が持ちそうにない時は、ビールを飲みながら弁当をむしゃむしゃ食って、固めの本でも読み始めれば、すぐにぐっすり睡眠を確保できる。
仕事したい時は、車内販売でもいいのだけど、できれば駅のスタバで大きめのサイズのコーヒーを買って持ち込む。
たいてい、本を二冊くらい持ち込む。今持っているのは、
べてるの家の本(斉藤道雄「治りませんように」)と、PC関連本として「Evernote」の解説書。
あと、ノートPC。
以前は、どこに行くにも持ち歩いていたが、iPhoneを持ち始めてから、一泊くらいの出張まではiPhoneで十分になった。もうすぐiPadが出たら、ノートPCにとって代わるのだろうか。
書きかけの原稿。たいていふたつくらいプリントアウトした未完の草稿を持ち歩き、きっちりまじめに書くのではなく、つまみ食い的に、アイデアが出る部分をメモ書き的に膨らませる。家に帰ってから、それをPCに打ち込み、体裁を整え、清書する。
ノートパッドは二種類ある。普段の通勤では、防忘録。ちょっとした断片メモを書くために、小さめ(B6くらい)のメモ帳。これも、iPhoneを持ち歩くようになって、ぐっと使用頻度が減った。
出張など、多少まとまった時間が取れそうな時には、A4の大きなしっかりした革製のNotePadを持ってくる。多少かさばるけど、プリントアウトした草稿に書きくわえたり、白紙の広いノートに頭の中から出てくるideaを自由に書きとめる。
最近、万年筆に凝っている。モンブランの○万円する高級万年筆。学生時代に何かのお祝いにもらい、その後、1年くらい使った後、ずっと寝かせてあったやつを1年ほど前に修理して、ペン先を替え、使えるようにした。ふだんの仕事はほとんどボールペンだが、リラックスして、アイデアを醸し出そうとする時は、筆圧が軽く、太字で大きな字をかける万年筆が良い。さらに、つい最近、ネット通販でドイツ製Lamyの万年筆を買った。プラスチック製で、3千円くらい。外観はすごく安っぽく、奇抜な原色のデザインだが、書き味はモンブラン以上に良い。モンブランは、クリニックでのカルテ書きなど、見栄を張りたい時に、Lamyはひとりで書くことに集中したい時に使えそうだ。

というわけで、今、この文章を書いている。雑文的に、ブログ原稿として書いているけど、書きながら考えを展開し、深めていくうちに結構ユニークなアイデアが出てくるので面白い。とりあえずブログに上げて、それを編集してweb siteに上げ、さらにそれをまとめて本にする。その始めのネタを作っていると考えれば、こうやって書き進めるのも楽しい。

2010年4月25日日曜日

ドッグラン・デビュー

もうすぐ1歳になるうちのビーグル犬のカイ君を、近くの公園にあるドッグランに連れて行った。昨日に続き今朝が二回目の体験。昨日のことを覚えていたみたいで、今朝、入口にさしかかると、入りたくない!と必死に抵抗した。
そうだよな。昨日は入るなり、たくさんの犬たちが寄ってきてカイのにおいを嗅ぎまくっていた。カイはビビりまくり、尻尾は股の間に入るくらい垂れ下がる。
みんな、カイのことに興味を持って、友だちになろうとしているんだよ!
でもカイの表情は怯えきり、他の犬から逃げ回る。すると、みんな追いかけるので悪循環。すっかり憔悴しきったようだ。
飼い主たちもドッグランの中に入り、わが子たちを見守っている。結構、血気盛んな犬たちはじゃれあい、ケンカになり、一方が攻撃すると、片方は腹を見せて降参する。

ひとり、名主みたいなおじさんがいて、私にも話しかけてきた。
大丈夫。片方が抵抗しなければ、襲ったりしないから。こうやって何度か痛い思いをしたらすぐに慣れるよ。このへんは、過保護な犬が多いからね!
若いカイ君にとって、犬社会へのデビューだね。ピカピカの1年生が学校に行くと、まわりはみんな6年生の多きなお兄さん・お姉さんたちばかり。とても太刀打ちできないよな。でも、ここで諦めたら友だちはできないよ。カイにとっては、みんながいじめてくるように思うだろうけど、そうじゃないんだよ。仲間になりたくて寄ってくるんだから、大丈夫。
また、来週、連れてこよう。

2010年4月22日木曜日

職場で辞職を表明

現在、勤めている大学を今年度いっぱいで辞め、開業することを、昨日の教授会で学科の教員仲間に伝えた。
かなり前から、親しい友人や、ごく身近な同僚たちには伝えてきたのだけど、秘密裏だった。
これで、おおっぴらに話を進められる。もう、後には戻れない。

同僚たちの反応は、思っていたよりクールだった。
大学教員は、企業の社員や、一般の公務員のようなチームワークの部分はそれほど多くはない。小中学校の教員は、学年単位・学校単位で協力しなければならない仕事が多い。大学の場合、輪番制の各種委員や学生の担任などの役割は、私が抜けることで迷惑をおかけするが、本体の授業や研究は個人単位で行われるから、チームを組んでいる仲間以外は、直接大きな影響を受けるわけではない。上司に相当する学部長もいるが、辞表を提出するわけでもなく、一応、僕の意向を告げ、あとは事務手続きを進めるだけだ。

過去に辞めていく教員を振り返ると、定年退職と、他の大学に移ったりの自己都合退職と半々くらいだろうか。医師免許を持っている教員は、私のように辞めて開業するパターンがけっこう多い。私が抜けることによって、新たに教員を公募することになる。その手続きが面倒で結構時間がかかるので、今回のように早め、つまり年度が始まってすぐに大学に伝えないといけない。大学が望むような新たな人材が見つかるか、不安は残る。また逆に、私より若く、優秀で、大学にとってふさわしい人材を発掘するチャンスだろう。

むしろ私が心を痛めるのは、僕と直接チームを組み、一緒に仕事をしている人たち。彼らは僕の辞職によって多大な影響を受ける。僕が抜けても、彼らの安寧をどう実現させるか。辞めるまでの間に考えないといけない。

今までは、組織の中の人間として、良くも悪くも所属する場によって自分の存在が証明されてきた。これからは、一匹おおかみ。所属機関は自分自身しかない。自由かもしれないが、厳しい。経済的には、きっとなんとかなると思うが、全部、自己責任だ。組織に頼ることはできない。それだけの覚悟ができているのか、よく自分自身に言い聞かせないと。

2010年4月18日日曜日

人生の方向転換宣言

3日後の教授会に、公開して、正式オープンにできる。
もう待ちきれないから、ここで言ってしまおう。
このブログはまだ誰にも伝えていないから、まわりの人たちもきっとまだ読まない。後々から読みに来るかもしれないけど。

はい。私は今年度末で今の職を退き、クリニックを個人開業します。

はあ、やっと言えた!
今まで、限られた親しい人たちには半年ほど前から伝えてはいるんだ。
もともと、「開業したいな~」という気持ちは10年近く前からあり、飲んで、昔の友だちや、仕事に関係ない友だちなんかにはよくこぼしていた。しかし、それを実行に移すほどの勇気というか、incentive、きっかけはなく、この10年、ずるずる今までの仕事を継続してきた。それでずっと良かったんですよ。今でも現状維持でもぜんぜん構わない。旧国立大学の教授職は、きっとみんながあこがれる、とても恵まれた職場です。安定し、仕事がひどくきついわけではない。自分の裁量で研究や授業の内容は決められる自由もあるし、授業がない自由時間が夏には40日以上もある。うちの学科は女性教員が多く、雰囲気もよく、人間も優しくスムーズです(もちろん問題がないわけではないが)。
それなのに、なぜ今、50代の脂の乗り切った時期(まわりの人はよくそう表現するけど、自分ではそういう意識はあまりありません)に、大きく方向転換をするのか?
そのあたりの事情は、今まで僕を支えてくれてきた人たち、これから臨床などで出会う人たち、そして空の優子や自分自身のためにもちゃんと言葉に表して説明しておいた方がよいと思う。
...ので、書きます。
いくつかの説明の仕方があるかな。
  1. 小さい頃からの夢
  2. 今の職場に対する違和感
  3. 定年後のライフプラン
  4. 優子との約束
(続く)

なぜ方向転換するのか?(その1)

1)小さい頃からの夢

原体験としては、高校3年のアメリカ留学時代。医者になりたいというおぼろげな将来の夢を聞いたhost motherが、自分のかかりつけの精神科医に僕を紹介してくれたんですよ。
「Tiki、私(host mother)の先生に会いたい?とても素晴らしい先生なのよ。優しいし、週末には家族とよくテニスしてるし。」
近くの町のクリニックの小さな診察室で、17歳だった私が始めて精神科医に出会い、握手したことは、今でもよく覚えています。中国からの東洋系アメリカ人。日本にもふつうにいるようなおじさんだったけど、host motherはとても尊敬し、誇りを持って僕に紹介してくれたんです。
日本では、精神医療や精神科医は闇の世界、自分が精神科にかかっていることは隠そうとするし、ましてや友人や家族に紹介したりしません。でも、僕の精神科医のイメージはその時、ほんの数分会っただけの彼から来ています。患者から、地域の人々から認められている人。アメリカ映画によく描かれている精神分析医もモデルになった。
その後、日本の医学教育や研修医時代に出会った精神科医や精神医療とは大違いでした。時代と共にずいぶん変わってきたとはいえ、精神医療に対する社会的偏見は根強いものがあります。「狂った人」を精神病院に収容するイメージ。一度入ったら二度と出られない。ジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」(One Flew Over the Cuckoo's Nest. 1975年)と今の日本社会はそれほど変わっていません。タブーな世界としての精神医療。病識のない患者さんとその家族から恐れられている精神科医。薬物療法が中心で、精神療法(カウンセリング)を希望して長く話したがるやっかいな患者は臨床心理士にオーダーを出して、まるでレントゲン検査か血液検査のように患者さんの心を評価しようとする医者たち。それが僕のかけ出し医者時代に経験した日本の精神医療でした。
僕がやりたいのはそういう古い体質の精神医療ではない。夢と希望を持てるような、positiveでproactiveな精神医療。
既存の精神病院で働くつもりは全くありません。今までの日本の精神医療との伝統とは全く違うところで、僕の考える、人々にとって、本当に力になれる医療を目指したい。それは、

  • 十分な時間をかけた、ゆっくりとした深い対話。
  • 薬の処方は二の次。必要な場合には使うけど、一番大切なのは会話。
  • エコロジカルなモデル。個人の病理(生物学・医学モデル)のみならず、環境の要因、つまりその人の生い立ちや家族・地域・社会・文化との関わりにも注目した支援。

そんなことを目指します。

日本の精神医療では、精神科医と心理士の役割が切り分けられ、別々になってしまった。
精神科医=生物学(医学)モデルによる薬物療法。
心理=心理学モデルによるカウンセリング。このように分かれてしまった理由は、心理士には十分な医学教育が含まれていないからしかたがないとしても、精神科医は両方のモデルを使えるはずです。でもそうならない理由は:
1)医学教育における心理学モデルのトレーニングの欠如。医者の学部と卒後教育は医学モデルに大きく傾き、心理学モデルがほとんど教育されません。少なくとも僕が30年前に受けた教育はそうだった。今は、エコロジカル(生態的)な時代です。Bio-Psycho-Socialの3つのレベルを重ね合わせた多重的なアプローチが必須です。特に精神医療の場合には。
2)医療保険制度の弊害。時間をかけた良質な精神療法に対する評価が組み込まれていない。今年の改定でも精神療法は5分以上で330点(3300円)、30分以上でも400点(4000円)。時間をかけても報酬がほとんど変わらない。それより、診療自体は短く切り上げて、薬をたくさん処方して、検査をたくさんしたほうがはるかに点数(=収入)を稼げる。
それでは、時間をかけた精神療法の点数をもっと上げれば良いのでは?
すると、こんどは時間をかけた精神療法の質をどうやって客観的に評価するかという問題に直面する。薬や検査の質、つまり効き目は客観的に評価可能だ。でも、精神療法は基本的に会話:おしゃべり治療だからね。ちゃんとトレーニングやスーパービジョンを受けて、深いところまで理解して効果を上げる場合と、治療者が何にも分かっておらず、見よう見まねの役に立たないおしゃべりだけで時間を潰すのか、その両者をどう見分けるか。本当は、目に見えないpyschotherapyに対するoutcome researchが必要なんだけど、なかなかそこまで研究が進んでいない。だから、もし仮に時間をかけた精神療法の点数を引き上げたら、売れない、腕の悪い精神科医が、あまり患者が来ないので、ひとりの患者をダラダラ長く診て、何もしていないのに点数を高くもらっちゃうという現象が起きるのでは。
だから、カウンセリングの効果をどうやってクライエントに示すのか。Evidence Based Medicineが必要な時代、psychotherapyにおけるevidenceとは何なのか?
治療を受けて、はい良くなりました、主訴が解決しました、症状が緩和しましたというoutcomeが必要なわけだが、それをどう測定するのか?
まず、ひとつ考えられるのは、クライエントの評価です。治療が終わった段階で、あるいは途中経過の中で、主訴の改善はこれくらいですとfeedbackしてもらう。紙に書いて、あるいは口頭で。それできるか?クライエントに負担がかからないか?正直な客観的評価が可能か?
もうひとつ考えられるのは、治療者側の自己評価。カウンセリングがうまくいっているか、効果が上がっているか、チェックリストを作る。でも、自分自身で客観的に評価できるのだろうか。恣意的・自己愛的に、甘くなりはしないか。
そういう意味で、もっと分かりやすいのは、治療の物語を記述することかもしれない。治療の効果がわかり、クライエントが呼んでも納得できる物語。ベストは、クライエント自身もその記述に参加してもらうこと。
(続く)

なぜ方向転換するのか?(その2)

2)今の仕事への違和感
いや、今の仕事は良いんですよ、すごく恵まれている。
でも、僕自身にとって、疑問が湧いていた。
教育よりも、臨床の方が良い。
人と関わり、人に対して専門の立場から影響を及ぼす。それによって、その人が成長したり、問題を解決することでbetter personになれる。そこまで立ち戻れば、両者は同じはず。
  • 大学教員が、学生たちに学びの場を提供することによって、彼らはbetter personになれる。
  • 精神科医は、患者と関わり、抱えている病気や問題について支援することで、彼らはbetter personになれる。
どちらも、結果は同じじゃない!どこが違うの?
密度の問題なんです。
大学教育:僕が学生たちに関われるのは、たくさんの授業の中のひとコマにすぎません。効力感の問題というか、僕がいなくても、社会人にはなれます。あと、専門性の問題。僕でなくてもできる。教育、少なくとも今僕がやっている事は、他の専門家でもできます。
思春期臨床:ひきこもりへの家族療法。男性支援。夫婦カウンセリング。異文化間夫婦。こういうのを扱える人は、僕のみとは言わないけど、この社会の中にかなり限られている・・・という自負がある。
すぐに効果が見えるという効力感:僕の関与が、直接的にクライエントの運命を左右することもある。それは大それた、恐ろしい事だし、責任を伴う。それだけ、やりがいもある。

あと、大学の授業で教え込むことへの違和感です。
僕自身の高校・大学時代を振り返っても、きちんと知識を覚えることが苦手というか、興味がありませんでした。既存の知識体系に入って行くことに自信がありません。

一番辛いのが、大人数の学生に、知識を教え込む授業です。一生懸命教授がしゃべればしゃべるほど、学生は興味を失う。それが僕自身の学生時代の想い出です。大学教員になり、今の学生たちを見ていると、僕の話に一生懸命食いついてくる学生と、寝たり内職したり興味を示さない学生の両者がいる。教員として彼らを見ていると、どうしても後者の方に共感してしまう。そうだよな、必修だから仕方がなくとっている科目の先生がしゃべったって、そんなに興味を持てないよな。そしたらやる気だってしないよな。自分でしゃべっていて、何かむなしさを感じる。
枠組みを教えるより、枠組みを破ることを伝えたい。少人数の大学院の授業や、卒論の個別指導はまだ良いんですよ。僕が教え込むのではなく、学生が自主的に新たな知識を求めるお手伝いをする作業です。
そういう意味で、精神科臨床、少なくとも僕のやろうとしているpsychotherapyは家族システムという既存の病理的構造を破り、新たなシステムを作ろうとする試みです。DSMなど、既存の診断基準にあてはめる操作的診断方法はイヤです。

3)定年退職後のライフプラン
今、公務員を辞めるのは収入的に絶対不利だ。
今、自己都合退職で辞めると、65歳の定年退職で辞める場合と比べ、退職金が約1/3。退職後もらえる共済年金(昔で言う恩給)ももらえなくなっちゃう。公務員の退職後はすごく手厚いんだよな。
それらを捨ててまで、開業する価値は、ホントにあるのか?
65歳まではそれほどメリットはないかもしれない。
問題は、それ以降。まだ、悠々自適には早い。多くの大学教員たちは、退職後、別の私立大学に天下りじゃないけど、再就職している。それは避けたい。条件の良いところが見つかる保証はないし、たとえ道が開けたとしても、学生に教えるのはもうたくさん。
臨床に戻りたい。でも、65歳過ぎて新たな道を切り開くのはしんどい。50代の今、作っておけば、その後も、体力・気力の続く限り、自分なりの社会との接点を維持できる。

4)優子との約束
private lifeにおける事情のため、プライベート版ブログに記載しました。

2010年3月6日土曜日

始めの一歩

今日、ウェブサイトのレンタルサーバーとドメインも取得した。これからウェブサイトも作っていこう。
来年の4月が開業開始の目標。
自分の心の中に、アイデアはもう10年くらい前からあったかなあ。自分自身、定かではない。

今日も、銀行の担当者とファンドの相談をした。帰り際、
「来年には、開業されるという予定が、、、?」
「ええ、以前話した通りの予定で進めてますよ。また、相談させてください。」

税理士にも相談している。
勤務先の大学にも、直近の同じ分野の准教授と学部長には伝えてあるのだけど、他の教員や学生たちにはまだ話していない。新年度4月を過ぎたら公(おおやけ)にしようとは思っているんだけど。

開業へ向けて、前に進む思い。
まだ、本当に良いのだろうか、逡巡する思い。
未だ、この両者の間でアンビバレントに揺れている。
結婚する時も、確かそんな気持ちがあったよな。

まだ、決断する前の見切り発車。
行く先をしっかり決めてから走り出す人と、走り出しながら行き先を決める人。
私は後者なので、とりあえず進めるしかない。どうなるかはわからないけど、きっと、どうにかなるでしょう。