2021年8月22日日曜日

ジェノグラム合宿(8月)下書き

コロナの渦中ですが、今年はジェノグラム合宿を3回行います。
 8月に行った第2回合宿の振り返りをご紹介します。

私がこの合宿で一番強烈な学びだったことは、『鎧を脱いで素の自分を他者に認めてもらうことで得るもの、自分の心の変化』そして、『その他者との関係』です。
今まで自己肯定感を高めるためには「鎧を脱いで素の自分を他者に認めてもらうことが必要」というのは度々田村先生から伺っていたことですが、これをまさに強く実感しました。

合宿中に自分の話をするのは怖いなと思っていました。自分の番が回ってくるまで本当にドキドキでした。でも初日に田村先生のお話を伺って「そこまでお話なさるとは!」と私はかなり衝撃が走っていたので、自分も打ち明けたいという欲求に火がついたのだと思います。
参加した方が涙ながらにお話されたことで自分の怖さが緩むのを感じました。人からどう思われるかという怖さです。

今までも私はミーティングなどで結構自分のことはオープンにしてきたつもりです。少なからずそのような体験をしてきました。だからわかっていたつもりでしたが、合宿ではその素の自分のレベルがより深いところ、普段では絶対出せないところ、性的なことを出すことができました。すごく恥ずかしかったです。すごく恥ずかしかったけれど、打ち明けた後は気持ちが楽になり、スッキリとした気分になりました。
そして、ジェノグラムを通していろいろ質問してもらったことで自分の中の矛盾点に気づき、答えていく中で徐々に整理されていき、最終的な私の答えが見いだされてきました。『自分って捨てたもんじゃないな、こんな自分でも良い』ということ。
この間、ずっと皆さんが受容的な雰囲気でいてくださったことを覚えています。だから、どんどんどんどん話せました(笑)
合宿で出せた素の自分を本当に伝えたい人に出す勇気も出てきて、伝えることができました!
話す前は、私の話で嫌な気持ちになるのではないかと思っていたので、とても怖かったです。でも予想外の反応で、本当にとても安心しました。信頼が私の中でさらに深くなりました。

しっかりと心の変化を体験していただけたことは、主催者の私としても嬉しく思います。
性(セックス)というテーマは心の一番奥深くにあります。そこまで掘り下げられるのは難しいのですが、よく出来ました!
は生きるために、命を繋ぐために最も大切なことです。
それだけに肯定的否定的な大きな感情をもたらします。
それがうまく成就されると、人生の深い幸福となります。
それが傷つけられると、とても深い傷を負います。
それだけデリケートで敏感な部分ですから、そう簡単には言及できません。
語ることは羞恥心を伴うからとても困難です。パートナー同士で、セックスという行為はできても、それをお互いに語ることはなかなかできません。
子ども達への性教育が大切だと理解しても、大人達もなかなかうまく扱うことができません。
そういう意味でも、自分自身を、性に至るまで安全に語ることができたのはとても大きな成果であり、そのような場を作れたのは私としても嬉しく思います。

何度も合宿の振り返りを文字に起こそうとしたのですが、上手く言葉にすることができず、あっという間に2週間がすぎてしまいました…。
拙い文章ではありますが、今の気持ちや考えた事を言葉にしてみました。

この合宿に参加しようと決めてから、自分なりに心の準備をしているつもりでした。しかし、実際に話をしていくと、思いがけない所で涙が溢れ、言葉につまり、改めて家族や自身の体験を話すことの難しさを感じました。
そんな中でも、パニックにならず、最後まで冷静に話をすることが出来たのは、参加した皆さんの温かい雰囲気によって、安心する事ができていたからだと思います。

今まで自分の家族に対して否定的な気持ちが強く、そんな自分にも否定的でした。しかし、田村先生から「どうして家族のためにここまでできるのか?」という質問をして頂いた時、「家族のことが大好きなんだと思います」と答えました。あまりに自然に口から出たので驚きましたが、これが本当に純粋な家族に対する気持ちなのだと感じました。その後に先生が仰られた「大嫌いだけれど大好き」という言葉で、私の家族に対する気持ちが明確になったように思います。同時に、その感情を肯定して頂いたことで、今の自分を無理に変えようとしなくていいと思うことができました。

また、「亡き祖父が今の私になんと言うか?」という質問に答えたことで、祖父が私にとってどれだけ大きな存在だったのか気づき、感謝の気持ちでいっぱいになりました。今考えると、今までの自分の行動を肯定できた瞬間でもあったようにも思います。

合宿の後、今までずっと心に張り付いていたものが取れ、心が平坦になった気がします。
確かに今も家族の問題は存在しますが、子どもやきょうだいという立場ではなく、1人の人間として自分の道を生きることを優先しながら、自分が出来ることをゆっくり考えていきたいと思います。

この振り返りを読ませてもらった時、私も涙が溢れました。
「パンドラの匣」だと思うんです。
絶対開けてはいけない箱を好奇心に駆られて開けてみると、中から疫病、犯罪、悲しみなどなど、ありとあらゆる災いが飛び出してきました。そのあと箱の中に残されたものは「希望」でした。
「大嫌いで、大好き」というアンビバレンスは、家族に普遍的に存在しているはずなのですが、そのことに気づきたくはありません。だって、大嫌いだから好きだなんて認めたくないし、あるいは逆に大好きなはずなんだから、嫌いだなんて認めたくありません。
しかし、その葛藤を受け入れることができると、固まっていた気持ちが氷解し、ストンと安心できるのだと思います。

家系図には生きている人だけを書いて、亡くなった人は書かない場合がよく見られます。しかし亡くなった人も含め、三世代以上の家族を書いて、どう相互に影響しあっているか展開してみることが大切です。

自分の家族のジェノグラムを作成しながら話すことで、それまで頭の中でごちゃごちゃしていたものが外に出て、視覚的に理解でき、とても整理しやすかったです。
新しい発見だったことをお伝えします。
田村先生に「なぜ外に出るのが怖かったのですか?」と質問されたときに一瞬面食らった感じになりました。
今まで怖いという感情にしかフォーカスしていなかったので、何故怖かったのか?自分でわからなかったです。そして、外に出るのが怖かったときの当時の心情を思い出して、考えず出た言葉が
「ひとりぼっち」
「誰とも繋がっていないから」
「安心を得るためには人に合わせるしかない、でもそれは苦しいから外に出たくない」と。
私自身について新しい発見でした!
そして、人との心のつながりって大事なんだ!と改めて気づきました。
先生が以前お話された南極の昭和基地のことを思い出し、ああ、こうゆうことだったのかと腑に落ちました。わかっているようでわかっていなかったことがいろいろあったことに気づきました。

家族を語る中で、新しい自分に出会えるって、素晴らしいですね!
一人では見いだせないけど、対話する中で見えてくる自分なのだと思います。

初日に田村先生の赤っ裸な話しを聞き、話す勇気もですが、なにより話された田村先生に親近感や今まで以上の信頼感を感じた瞬間、裸になる気持ちの良さが全身に溢れてきました。
自分のジェノグラムを小さい頃からの自分、成長していくにあたっての関連性を思い話していくうちに気がついたら父親の話に自分の気持ちがいっていることを先生に言われはっとしました!
小さい頃から今現在、常に自分に中に抱えている問題はそこにあるんだな!
そこを変える事ができればと!
父親との関係を深く考えれば考えるほど幼き頃からのトラウマばかりでどうしてもそこから抜け出せない自分の気持ちを先生が
『なんで長男の名前に父親の一字を使ったんですか』
という言葉にはっとさせられました。
そうだったんだ誰から頼まれたわけではなく父親の一字を長男が生まれたときなんの迷いもなく命名した自分がいた事。その時の気持ちが甦ってきました。
相手への嫌悪感が自分を支配していてそんな気持ちがあったのを忘れていたことを。
その気持ちを掘り下げて父親に接してみよう、時間はかかっても父親と向き合ってみようと光が見えてきました。

鎧は脱ぐんじゃなくさらに着るものじゃなきゃいけないと言われる世界にいたのかなって自分のジェノグラムを考えていたら思いました。
身を守るための鎧を着たもの同士の世界、いっぱい着るから鎧と鎧がぶつかっちゃって、自分を守るためにさらにその上から鎧を着るそんな心の身動きが出来ない窮屈な世界にいた時期があったなって。
相手にもよるんでしょうけど鎧を脱ぎ裸になった時、実はその姿が一番素晴らしいって事を実感しました。

裸は気持ちが良いですよね(笑)!
でも、恥ずかしいからすごく勇気がいります。
ジェノグラムを書くと、世代間に伝達されているレガシー(遺産)に気づくことができます。
プラスの遺産と
マイナスの遺産
たいてい、両方あるんですよ。
しかし合算してマイナスになると、プラスの遺産が見えなくなります。
継承方法もいろいろです。
男子のレガシー)祖父から父へ。そしてその息子へ。
女子のレガシー)祖母から母へ。そしてその娘へ。
男性の遺産相続はなかなかやっかいです。
物質的・金銭的な遺産は見えるのですが、その陰に隠れた心情的な遺産は見えにくいものです。だから、気が付かず無意識のうちに次世代に継承されてしまいます。
プラスの遺産はどんどん継承し、マイナスの遺産は相続を放棄します。
それがMurray BowenやMonica McGoldrickらの多世代派家族療法であったりします。

男子が鎧をたくさん着込む窮屈な世界は、私自身も経験してきました。
学力をつけ、体力をつけ、経済力をつけ、
人より優れていること、試合に勝って、金メダルを目指すこと。
弱音を吐いてはいけない!、泣いてはいけない!
弱さを隠して、強くあらねばいけない!
そのような伝統的な男の世界に、私もいました。
危険な社会で生きるために立派な鎧は必要です。
でも、本当は違うんですよね。
私は十代の頃、柔道を習いました。
柔よく剛を制す。
自然体でいることが、本当の人間の優美なのだと思います。

次の第三回合宿は9月に行います。
「メタ合宿」、つまり、今まで参加した経験をお持ちの方限定の合宿で、さらに深めていきます。

2021年5月18日火曜日

自分を出すこと(グループSV)

先週土曜日のグループSVはオンラインで5名の方が参加されました。
3時間のSVで、二人の方が事例を提示されました。
振り返りをご紹介します。
 
またたくさん語らせていただき、私ったら要約しすぎて大事なポイント伝えてなかったなと自分自身の抜けっぷりに苦笑でした。でもたぶん日常に紛れて埋もれがちな、でも実はケースにとって大切な要素だったのかなと、皆さんと議論する中で気づく感覚もありました。
話をしている中では、ひとつひとつのプロセスをこなしていくのに必死で、一所懸命で、つい全体を見ることや、ケースの本質の部分から離れてしまう部分もあるということなのかなと思いました。
後、ケースを知るために聞かれるというか深められるプロセスはSVの安全な場の中であってもドキドキする体験でした。クライエントの方も味わっていることなのかもしれません。
ある意味では皆さんに私が煮たり焼いたりされる過程は相談のプロセスとも似ているのかもしれないですね。とてもエネルギーを使う、でもためになる体験でした。
先生のスキーのコーチの例えはとても斬新で、勉強になりました。目の前に現れてくる課題をクリアにしながら、それでも根本となる体幹を鍛えたり、重心を捉えたりする視点を大切にこれからもケース運営をしていきたいと思います。

よく言われることですが、ケースを出すこと自体がケースについて考えることなので、それが一番大切なことだと再認識しました。

確かに、自分を出すことは勇気のいることです。
支援者は自分が関わるケースを
クライエントは自分の感情や体験を。
自分を出せば、痛いところ、弱いところ、ダメなところ、いろいろ出てしまいます。
恥ずかしいからね。ドキドキですよ。
だから、ついごまかしたくなって、自分じゃない別のものを出すんですよ。
支援者はSVで自分を出さずにクライエントを出したり、
患者は自分を隠して、体の病気を出したり、子どもを出したり、連れ合いを出したり。。。

でも、そのあたりは開き直った方が良いと思います。
素の自分が恥ずかしい、、、と思う部分を変えるんです。
もちろん、ハダカの自分は恥ずかしいですよね。
よっぽとルックスや身体美に自信があればそうでもないかもしれませんが、ふつう、素の自分なんて人に見せたくないものです。

なぜなら、自分はマトモである、、、と思い込みたいから。
でも、よく考えるとそのあたりに無理があるんですよね。
人は誰でもマトモでありヘンでもある。。。その両方を持っている
と思えばよいのです。
半々だったり、6割・4割だったり、人によってその割合が多少違うだけであって、すべて100%マトモな人なんているわけないし、すべてがダメな人もいるわけがない。
誰でもダメでヘンな部分を持っているわけです。
そう思えば、別に自分のダメな部分、弱い部分を出しても恥ずかしくはありません。
むしろ、それを出す勇気があるってすごく素晴らしい強さじゃないですか。
患者さんでも支援者でも、ちゃんと自分のダメさを開示できる人って強い人だと思います。

SV場面でも、相談治療場面でも、痛い部分を持っているのなら、ちゃんとまな板に乗っていただいて、煮たり焼いたりされると痛い部分から解放されるばかりでなく、人間として真の意味の成長に一歩近づけると思います。

まあ、こういうことは理屈では納得するのですが、実際に、自分を出すとなるとドキドキ体験ですよね。
それはよくわかります。

2021年5月3日月曜日

家族の距離感(家族療法教室)

5月1日の家族療法教室には15名(オンサイト7名、オンライン8名)の参加がありました。
参加者からのフィードバックをご紹介しながら、内容についてご紹介します。

今回の事例、先生の関わり方、アプローチの仕方や家族の関係性の変化がよくわかりました。

はじめに私が関わった事例を紹介しました。
次に、具体的な話から深め、その背後にある考え方、つまりアセスメントや支援方法についてお話ししました。

目の前のクライエントだけでなく、その家族との関わり方のポイントをいただくことができました。現場で実践していきます。

木を見て森を見ず。
ごくごく当たり前のことなのですが、心理臨床の場でその視点をどう活用していくか。
家族療法はその一言に尽きるかもしれません。
従来の精神医学や個人心理療法のアプローチは、いかに問題を持ったひとつの木に注目し、内面を深めていくかという視点です。個々の木の特性と、森全体の特性を結びつける視点は、家族療法に独特です。

困っている母親の様子や父親の態度を具体的にイメージすることができました。母親の苦しみは消えていないのだと思いますが、A君は母親と距離をとり自立に向かっていると感じました。治療のゴールは子どもの問題解決でしたが、母親が自分のゴールを決めて自ら治療を求められるようになるといいと思いました。

視点を広げて周りの木々も見れば、どれも大変だし苦労を抱えています。
個人療法の考え方では、どの木を治せば良いのか視点がぼやけてしまいます。
家族療法の考え方では、周りを見渡すことで、新たな有効な視点を獲得できます。

家族の距離の大切さを実感しました。
関係性を調整することで様々な課題が解決に向かっていく。家族療法には希望があります。当事者同士の煮詰まった関係にうまく介入できる支援者でありたいと思いました。

今回は、家族療法の中でも構造派(Structural model)の考え方を紹介しました。
木々の相互の距離感は、個々の木の成長と、森全体の成長のステージによって変化していきます。近すぎても良くないし、遠すぎても良くありません。

関係性が自然に変化する方法として安心の場を作るということが勉強になりました。そのためには私自身がいかに安心していられるか。今後はその辺りをポイントにいろいろやってみようと思います。
家族、先生、友人:関係性の距離を調整するとても大切なところ、フォーカスするポイントに気づきました。

健康な森は、成長とともに木々の距離感が自然に変化します。
陽の光が不十分だったり、風が強かったり、土壌の栄養分が足りなかったり。
環境が厳しくなると、森は頑なになり、木々の距離を変化させて成長できなくなります。
そのような森に、どのように入り、どのように元気さを取り戻していくか。
そのやり方について、今後の教室で説明していきます。
いろいろな森をご紹介しながら。

2021年4月28日水曜日

あるひきこもり経験者の物語(2)

 太郎さん(仮名)は定期的に私の外来に通って来ています。
今日も、その後の物語のデータをUSBメモリに入れて持って来ました。



とてもよく自分自身の体験を表出し、考察しています。
その考察内容について多少理解しにくいところがあったとしても、これだけまとめ上げる力は素晴らしいと思います。
彼の旅は、まだまだ続きます。


2021年4月24日土曜日

スーパーヴィジョンの醍醐味

本日のグループ・スーパーヴィジョンは4名の方が参加しました。
事例を提示した方からの振り返りです。

久しぶりに自分のケースについてこんなにじっくり検討する機会をいただきました。最初は話す事の怖さも少しありましたが、それぞれの方がそれぞれの視点で真摯に考え発言してくださるのを聞いて、大丈夫だなという安心感になりました。

まとめてもいない事例を話すということに、自分自身が圧倒されそうになりながらも、その後の皆さんからの振り返りを聞いて、どんどん自分の中でフレーム化されていなかったことへの気づきがわいてくるのを感じて感動しました。それぞれ異なるポジションの方々からのトークがとてもよくて、勉強になりました。

事例を通して、家族って大変だよなという思いと、でも家族だからこそ、近い関係だからこそ生まれる心理的な葛藤こそが生きていくことの醍醐味なのかもしれないなという思いになりました。家族は立ち向かった問題をどう乗り越えていくかのプロセスワークですもんね。

それからあることに”はまる”事(依存すること、オタク化すること、発酵すること)のメリット、デメリット、、それらは表裏一体であること、そういう視点で考えたことがなかったのでとても斬新で、勉強になりました。その視点を持っているだけで何かしらの依存の問題に立ち向かうときに新たな視点を生み出せそうな気さえします。

今回も参加できてとてもよかったです。前回とはまた違った深みがありました。

これがスーパーヴィジョンの醍醐味ですね。セラピーにも共通して言えることです。
そこには二つの要素があります。
内容(content):どのような事例が提示され、どのような意見が出たのか。ここでは、SVで語られた内容については守秘義務もありますし、一切触れていません。
過程(process):内容を抜きにして、どのようなことが起きたかという様式です。自分の体験について怖さを抱きながら語り、それが他者に受け止められ、語り返されるという過程です。
内容からも得ることはたくさんあるとは思いますが、それを抜きにして、スーパーヴィジョンというプロセス(過程)自体が大きなエンパワーメントになるということです。
それはセラピー(クライエントとセラピストとの関係性)にも共通しています。自分が体験してきたことをまとめ、言葉にして語ります。その物語が共有され、共感されること自体が新たな体験であり、そこから新たな気づきや視点が生まれます。
自分の語りが認められ、肯定される体験自体に大きなヒーリング効果があります。
これを書きながら考えたのですが、このように言葉で説明してもなかなか実感を伴って理解できないと思います。逆に、実際に体験してみると、難しく考える必要もなくストンと腑に落ちるはずです。
それがセラピーやスーパーヴィジョンの醍醐味です。

2021年4月13日火曜日

私が生きてきた価値(2)


自分の人生について、非常に無価値であると思っています。
なんとか早く自分の寿命が尽きないかと思います。
まったく意味のない人生であると思います。
きっかけは子供のことです。
自分の人生がどうしようもないので、その悪影響が子供に出てしまいました。
しかしその解決方法がわからない、自分の人生は無価値であるし、取り返しがつかないという無限の責任論のなかをさまよっています。
生きているのがつらいです。

あなたの方向性は基本的に正しいです。
自分の価値はスタンドアローン、自分ひとりの単体では生まれてこないんですよ。
他者から肯定的に肯定されて、他人からの「いいね!」をもらって、初めて自分に価値が付与されます。

それに、私が前のブログ記事に書いた「価値」と、あなたが言っている「価値」はちょっと種類が違います。私が言っていたのは偏差値とか立身出世とか、私が身につけてきた鎧、登ってきた山の価値であり、あなたが言っているのは、鎧を着る前の素の自分の価値でしょう。
鎧の価値なら、合格証書をもらったり、本を書いたりテレビに出て有名になったり、Facebookやインスタでいくらでも「いいね!」をもらうことができます。
素の自分の価値は、素の自分を相手に見せなくてはなりません。
幼い子どもはまだ鎧を作っていないから、身近な人(愛着で結ばれている人)には自ずからよく見えます。大切なのは、その人が「いいね!」を発行できたかですね。
いわゆる、無条件の愛とか、unconditional positive regardとか言うやつですね。
あなたは昔きっと無条件の「いいね!」をもらい損ねたから、無条件の「いいね!」を子どもや家族に与えることができず、苦しんでいるように思います。

大人になると、鎧を纏って素の自分を隠すから、なかなか「イイね!」を出してもらえません。
あなたは、立派な大人ですけど、こうやって素の自分を私に見せようとしています。まだ一部ですけど。
素の自分を誰かに見せることができれば、「いいね!」をゲットする可能性はあります。
でも、大人の人は、なかなかできないことなんですよ。とっても恥ずかしいことですから。
子ども時代なら自然に見せちゃえるのですが、大人になると相当な抵抗感があります。
そういう意味で、あなたの方向性は基本的に正しいんです。
でも、まだ道なかばで、価値を見いだせるまでには、まだもうちょっと苦労しますけど。

2021年4月11日日曜日

私が自分を語る時(家族ミーティング)

 昨日の「家族と支援者ミーティング」は新年度初回ということもあり、オンライン・オンサイトを含め4人の参加でした。
参加者からのフィードバックをご紹介します。

以前から少し疑問に思っていたのですが、オープンダイアログというからには、ファシリテーターももっと当事者感を出していくものじゃないのかな?田村先生はあまりご自分の話をされないな、と思っていたのですが、いつもは人数が多いからだっだんですかね。
今日はたくさんお話されたので、先生の当事者性を少し強く感じることができ、リンクを感じた気がしました。
実は、先生のブログを前からずっと読ませていただいてきたのですが、文中の先生はかなり良い意味でエモーショナルな印象なのに、実際にSVなどで出会うとちょっとクールな印象で話づらくなってしまう時があります。今日の先生の印象は、より先生の書かれるものに近い印象がありました。
それはわたしにとっては安心に繋がるものです。

確かに昨日は私自身の体験を随分語ってしまいましたね。
意図していたわけではないのですが、シチュエーションに合わせて、客観的な支援者を装ってクールにいくか、自分の鎧を脱いで感情体験を語りホットにいくか、何となく調整しているのかもしれません。
昨日は、人数も少なかったので私もより安心したのかな(?)、自分を語ることができました。

各種シチュエーションを問わず、普段は触れない鎧の下の感情に気づいて欲しい、タブーにするのではなく扱えるようにして欲しいという願いは共通しています。
普段の「家族と支援者ミーティング」は人数が多く、参加者同士でシンクロするパワーがすごいんですよ。誰かが鎧を少し脱ぐと、みなさん触発されてどんどん脱ぎ始めるんですね。私が脱ぐ見本をお見せするまでもなく。
それは、群馬で初めてこのミーティングを持った蛙トープ時代から感じていました。
(開催場所を蛙トープ→いぶき会館→村役場の会議室→古民家と移動してきました)

ジェノグラム合宿では、より集中して鎧を、そして下着まで脱ぐんですよ(失礼)。
その時は、まず私がホットになって自分の鎧を脱ぐデモンストレーションをしたりします。

ブログや本のあとがきでもエモーショナルな自分を書いてますかね。。。
文章はもともとクールなメディアなので、あえてホットな感情を書いたりもしています。

いのち電話の相談員さん向けの講演会などでは100名を超える聴衆の前で、涙とともに感情体験を語ったりします。「先生の話に感動しました!」と語ってくれる人々がいる一方で、そこまでついていけない人にとっては違和感を抱くのだろなと思います。

セラピーや個人SVの場面では、あまり自分をホットに語ることはしませんねぇ。
相手が自分を掘り下げる前に、私が掘り下げちゃったらびっくりして引いちゃうんじゃないか、、、みたいな不安があるのかもしれません。
でも、ご指摘のように、もう少しホットに語った方が、相手も語りやすいもんでしょうかね???
このあたり、私ももう少し検討してみます。

ーーー
今年度も、ミーティングの構成は変わりませんが、より方向性を明確に打ち出していこうと思います。

家族療法教室
家族療法の考え方ややり方について、具体的な事例をとおして学びます。

グループ・スーパーヴィジョン
支援者目線から、事例について語ります。

家族と支援者ミーティング
当事者目線から、体験を語り合います。

ジェノグラム合宿
支援者・当事者を超えて、自分自身の体験を深く掘り下げます。

クール(客観性)か、ホット(主観性)かという視点では

クール(客観性)・・・家族療法教室<グループSV<家族ミーティング<合宿・・・ホット(主観性)
の順番になります。